第一代 神武天皇⑪|東征伝承とルート~宇陀・吉野の平定~

2020年6月22日

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兄猾討伐

同年(前663)

秋 8月2日 天皇は、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を召し出しました。二人は菟田縣の魁帥(ひとごのかみ:首長)でした。

兄猾の方は来ないで、弟猾だけがやってきて軍門で礼拝し、

「兄猾は反逆を企てています。天孫がやって来られたと聞き、兵を集めました。

しかし皇軍の威勢を見て、これはかなわぬと思い、その兵たちを潜伏させておいて、仮宮を建て、機(おしき)を施した新宮を建て、饗応すると見せかけて、殺そうという企てです。

どうかこの策略を知って、お備えくださいませ。」

と申し上げました。

天皇は、道臣命を遣わして、その状況を視察させました。

道臣命は、兄猾の反逆心を察知して、激怒して責め立て、

「お前が造った建物じゃ!自分が入ってみろ!」

と言いました。

そして、剣案(つるぎのたかみとりしばり)し、弓を引き絞って、追い込んで中に入れた。そのため兄猾は天の罪により、言い訳すらできずに、自分から機(おしき)を踏んで圧死しました。

さらに道臣命が死体を引きずりだして斬り刻んで並べて晒すと、流れ出た血が踝(くるぶし)達したので、その地を菟田の血原(ちはら)といいます。

その後、弟猾は、勝利を祝って、牛肉や酒をたくさん準備して宴会を催しました。天皇は、その肉や酒を兵士たちに分け与えて、御歌を詠まれました。

菟田の高城で鴫を獲る霞網を張って待っていると、
鴫が掛からずに鯨が掛かった。
古女房がおかずを求めたならば、
やせた蕎麦の木の実が少ないように、
(肉の少ない所を)たくさん削り取ってやれ。
若い新妻がおかずを求めたならば、
イチイガシの実の果実が多いように、
(肉の多い所を)たくさん削りとってやれ

これを来目歌(くめうた)といいます。今、宮廷でこの歌謡を演奏するときには、舞手の手の広げ方の大小や、声の太さ細さなどに決まりがありる、それは昔からの決め事なのです。

吉野視察

その後、天皇は吉野の地を視察するために、自ら菟田穿邑から軽装備の兵を率いて見て回られました。

吉野に着かれた時に、井戸の中から、体が光り輝き尾のある人が現れました。天皇が、

「お前は誰か。」

と尋ねると、

「私はこの地の国神で、井光(ゐひか)といいます。」

と答えました。この国神が吉野首部(よしののおびとら)の始祖です。

さらに少し進むと、磐石(いは)を押し分けて尾のある人が現れました。天皇が、

「お前は誰か。」

と尋ねると、

「私は磐排別(いはおしわく)の子でございます。」

と答えました。これが国樔部(くにすら)の始祖です。

さらに川に沿って西に行かれると、梁(やな)を使って魚を取っている人がいました。天皇が問われると、

「私は苞苴擔(にへもつ)の子でございます。」

と答えました。これが阿太(あた)の養鸕部(うかいら)の始祖である。

 原文

秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。猾、此云字介志。是兩人、菟田縣之魁帥者也。魁帥、此云比鄧誤廼伽瀰。時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」爾、此云飫例。因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。

于儾能多伽機珥 辭藝和奈陂蘆 和餓末菟夜 辭藝破佐夜羅孺 伊殊區波辭 區旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曾麼能 未廼那鶏句塢 居氣辭被惠禰 宇破奈利餓 那居波佐麼 伊智佐介幾 未廼於朋鶏句塢 居氣儾被惠禰

是謂來目歌。今樂府奏此歌者、猶有手量大小、及音聲巨細、此古之遺式也。是後、天皇欲省吉野之地、乃從菟田穿邑、親率輕兵巡幸焉。至吉野時、有人出自井中、光而有尾。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是國神、名爲井光。」此則吉野首部始祖也。更少進、亦有尾而披磐石而出者。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是磐排別之子。」排別、此云飫時和句。此則吉野國樔部始祖也。及緣水西行、亦有作梁取魚者。梁、此云揶奈。天皇問之、對曰「臣是苞苴擔之子。」苞苴擔、此云珥倍毛菟。此則阿太養鸕部始祖也

 かんたん解説

菟田の血原(ちはら)

奈良県宇陀市莵田野町宇賀志に比定されています。

宇賀志川が流れ、川畔に宇賀神社が鎮座しています。祭神は「宇迦斯神魂」(うかしのかみのみたま)ですから、兄猾(えうかし)の霊魂を祀ったのでしょう。

宇賀志川に血原橋が架かっている所あたりが血原だと言われています。この血原の赤色から、実は水銀の丹が地表に現れていた場所なんだともいわれています。

井光(ゐひか)

井戸から出てきた、体が光り輝いている尾のある人。

水の神という見方もあるでしょうし、丹(水銀)採掘の人々を表現したのかもしれません。

古事記では宇陀に入る前に訪れています。きっと、2回訪問したのでしょう。

磐排別(いはおしわく)

磐を押し分けて出てきた尾のある人。

岩を押し分けるという表現から、石清水が連想されます。また岩を割って採掘する鉄や銅を採掘する人という見方もできるでしょう。

井光もそうですが、尾がある人とは先住民というような意味でしょう。神武天皇が弥生人だとすると、尾がある人とか土蜘蛛と呼ばれた人々は縄文時代から日本列島に住んでいた人たちということになろうかと思います。

もしかしたら、先住民独特の民族衣装で、お尻に尾のような房を付ける文化があったのかもしれませんね。

井光と同じく、古事記では宇陀に入る前に訪れています。きっと、2回訪問したのでしょう。

苞苴擔(にへもつ)

「にえ」は贄。神や天皇に捧げる食べ物のことですから、神に魚を捧げる人々です。

国津神に贄を捧げていた人々が、この日から天皇に贄を捧げる人々となった、すなわち「吉野を手中に収めた」ということの象徴として描かれているように思います。

苞苴擔(にへもつ)も、古事記では宇陀に入る前に訪れていますので、同じように2回訪問したと思うところですが、井光磐排別の場合とは事情が違います。

事情とは、その場所です。井光磐排別は吉野の山奥なのに対して、苞苴擔は五條です。

かつて、神武天皇は和泉国から天見川を遡り山を越え「紀見峠」から物見をしました。

その時、葛城から五條にかけては敵軍が詰めていると判断し、紀ノ川を遡り五條から葛城へ進むルートを諦めたという経緯がありますので、今ここで五條までいくとは考えられないからです。

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