賊軍の配置
天皇は、莬田の高倉山(たかくらやま)に登り、あたりを見渡しました。
すると、国見丘(くにみのおか)に八十梟師(やそたける)が陣取り、女坂に女軍を、男坂に男軍を置き、墨坂で炭火をおこして待ち構えていました。
その女坂とか男坂とか墨坂とかいう地名は、このようなことで名付けられたのです。
また、兄磯城(えしき)の軍勢が、磐余邑(いはれのむら)に満ち溢れていました。敵軍のいる場所は交通の要所で、そこを塞がれたために皇軍は身動きが取れなくなりました。
原文
九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時、國見丘上則有八十梟帥梟帥、此云多稽屢、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。磯、此云志。賊虜所據、皆是要害之地、故道路絶塞、無處可通。天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰「宜取天香山社中土香山、此云介遇夜摩以造天平瓮八十枚平瓮、此云毗邏介幷造嚴瓮而敬祭天神地祇嚴瓮、此云怡途背、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。」嚴呪詛、此云怡途能伽辭離。 |
かんたん解説
高倉山(たかくらやま)
高倉山の候補地は以下の3つ。
- 大宇陀大東と守道の間の高倉山が高倉山という説
- 大宇陀春日の宇陀松山城跡がある古城山が高倉山だという説
- 東吉野の高見山が高倉山だとする説
現在、顕彰碑は1の高倉山に建ってます。
しかし、2の古城山も捨てがたいです。1よりも標高が高いですし、何といっても戦国時代は城だったんですからね。
3は、前回の記事の通り、宇陀に入る前に国見をした山と考えるほうが自然です。
国見丘
宇陀と桜井の境に聳える経ケ塚山に比定されています。
宇陀全体を見通せる好立地。
神武軍が北上すれば背後から襲撃する。
ここを押さえられたのは痛いです。これでは、神武は動けませんね。
女坂
男坂の北にある女寄峠とも、国見丘の南にある大峠とも。
女寄峠であれば、粟原川沿いに西へ進み忍坂方面につながります。
大峠なら、談山神社から明日香へ抜けることが可能ですが、結構キツイ峠越えになるでしょう。
男坂
半坂の小峠が、男坂に比定されています。こちらも山越えの道です。粟原を通って忍坂へと続きます。
墨坂
墨坂伝承地は、宇陀市榛原の荻原にあります。宇陀市から桜井市に抜ける「初瀬街道」の宇陀側を押さえる位置です。そして、この初瀬街道を抜けた桜井側の磐余邑には兄磯城の軍勢が待ち受けています。
山越えの男坂・女坂が押されられ、初瀬街道の入口が抑えられているとなると、神武天皇が進める道は、もはや無いに等しいです。
磐余邑(いはれのむら)
桜井市の南東部と橿原市の東部に広がるエリアが磐余邑。ここに兄磯城が陣取っていました。
一方、桜井市の北部は弟磯城の拠点だったと考えます。
夢のお告げ
そこで、天皇はこれに怒り、自ら祈ってから寝ましたら、
夢に天神が現れて、
「天香具山の御社(おやしろ)の中にある土で、天平瓮(あめのひらか)を八十枚と、厳瓮(いつへ)を造れ。すなわち天神地祗(あまつかみくにつかみ)を敬い祀るのじゃ。
また、厳たる呪言をせよ。さすれば、敵軍は自然と服従するであろう。」
とおっしゃられました。
天皇は、夢のお告げを承り、まさに実行されようとしたとき、弟猾(おとうかし)が
「倭国の磯城邑に磯城の八十梟帥(やそたける)がおり、高尾張邑(たかをはりのむら)[ある書には葛城邑] に赤銅(あかがね)の八十梟帥がおり、これらの者どもは皆、天皇と一戦交えようとしております。わたくしめといたしましては、天皇が心配でなりません。
そこで、天香具山の埴(はにつち)を取ってきて、天平瓮を造り、すなわち天社地社の神(あまつやしろくにつやしろ)をお祀りし、その後に敵と戦えば平定しやすくなるのではないかと思うのですが、、、」
と申し上げました。
天皇は、夢のお告げの吉兆を得たうえに、弟猾のこの言葉を聞くにおよんで、ますますお喜びになりました。
そこで、推根津彦(しいねつひこ)にボロボロの服と蓑笠を着けさせ老爺に変装させ、弟猾にも蓑笠を着けさせて老婆に変装させ、
「よいか。お前たち二人で、天香具山に行き、頂の埴土(はにつち)をば、こっそり取ってまいれ。大業の成否は、お前たちが成功するか否かで占うこととするぞ。間違いの無いように慎重に行うように。」
と勅されました。
さても、道には敵兵が満ち溢れており、ここを往来するのは難しそうでした。
推根津彦は祈って(誓約して)
「我らが天皇が子の国を平定されるのならば、行く道は自然に通ずるであろう。そうでないのならば、敵兵は必ず妨害するであろう。」
と言い終わるとすぐに進みました。
敵兵たちが二人を見て大笑いし、
「なんとも醜い爺さんと婆さんだぜ。」
と言って、道を開けて通らせました。
二人は、無事に山に着き、埴土を取って帰りました。
原文
天皇、祇承夢訓、依以將行、時弟猾又奏曰「倭國磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。此類皆欲與天皇距戰、臣竊爲天皇憂之。宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之神、然後擊虜則易除也。」天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懷。乃使椎根津彥、著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌、而勅之曰「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」是時、虜兵滿路、難以往還。時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎大醜、此云鞅奈瀰爾句老父老嫗。」則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。 |
かんたん解説
天香具山
天香具山は、奈良盆地の南部にある山で、畝傍山・耳成山と併せて大和三山と呼ばれます。
奈良盆地の南部ですから、宇陀から山を越えて奈良盆地に入ることになります。まさに敵陣の中を進まないといけないですから不可能に近いです。
なぜ天香具山の埴土を取ってくるように命じたかというと、最も神聖な山だからです。だって、天香具山は高天原から降ってきたのですから。
天神地祇に祈る
天皇は、とんでもなく喜ばれて、その埴土で、八十枚の平瓮(ひらか)と天手抉(あめのたくじり、それと厳瓮(いつへ)とを造って、丹生川の上流に行かれて、これらを用いて、天神地祗(あまつかみくにつかみ)を祭られました。
その菟田川の朝原で、例えば水の泡が消えるが如くに、呪言するのに適した場所を見つけました。
そこで天皇は、また、誓約(うけい)をされて、
「私は今、この八十枚の平瓮で水を使わずに飴を造る。もし、飴ができれば、武器の威力無くとも天下を平定できるだろう。」
とおっしゃって、飴を造られると、自然と飴ができた。
また、誓約をされ、
「今ここで、厳瓮を丹生川に沈めよう。もし柀(まき)の葉のように浮いて流れるように、魚が大小問わず酔っぱらって流れていけば、この国を平定することができるだろう。もしそうならなかったら、平定は成るまい。」
とおっしゃって、厳瓮を川に沈めると、厳瓮は口を下に向け、しばらくすると魚は浮き出てきて、口をパクパクさせて水の流れに任せていました。
その時、椎根津彦は、これを見て天皇に奏上しました。
天皇は、大変喜ばれて、丹生の川上の五百箇(いほつ)眞坂樹(まさかき)を根ごと引き抜き、神々をお祀りしました。このようなことから、神祭りのときには厳瓮を置くことが始まりました。
天皇は、道臣命に勅され、
「今から、朕自ら高皇産霊尊を顕し齋き祭ることとする。おまえを齋主(いはいのぬし)とし、厳媛(いつひめ)の名を授ける。
また、そこに置いた埴瓮(はにへ)を厳瓮(いつへ)と言い、火を厳香来雷(いつのかぐつち)、水を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食糧を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪(たきぎ)を厳山雷(いつのやまつち)、草を厳野椎(いつののつち)と言う。」
と、おっしゃいました。
原文
於是、天皇甚悅、乃以此埴、造作八十平瓮・天手抉八十枚手抉、此云多衢餌離嚴瓮、而陟于丹生川上、用祭天神地祇。則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。又祈之曰「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。如魚無大小悉醉而流、譬猶柀葉之浮流者柀、此云磨紀、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」乃沈瓮於川、其口向下、頃之魚皆浮出、隨水噞喁。
時、椎根津彥、見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。自此始有嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。顯齋、此云于圖詩怡破毗。用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女罔象女、此云瀰菟破廼迷、糧名爲嚴稻魂女稻魂女、此云于伽能迷、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」 |
かんたん解説
丹生の川上・菟田川の朝原
まず「丹生の川上で天神地祗を祀った」とあります。そのあと、その祀りの詳細を記述するという文章構成になっていると思われます。といいますか、そのように読みました。
その内容が、
- 菟田川の朝原で、呪詛に適した場所を見つけた
- 水無しで飴を造った
- 厳瓮を丹生川に沈めて魚を浮かび上がらせた
- 眞坂樹(まさかき)を根ごと引き抜き、神々を祀った
「菟田川の朝原」「丹生の川上」。一見、菟田川と丹生川という別々の場所と思ってしまいますが、よく読むと、これは同じ場所のようです。
いくつかの伝承地があります。
榛原雨師の丹生神社
菟田川の朝原の伝承地はというと、一般的に「榛原雨師の丹生神社あたり」とされています。
しかし、ここは敵方の勢力範囲内。ここへ行こうとすると敵前を横切ることになります。あまり現実的ではないです。
東吉野の丹生川上神社
一方、丹生川上神社中社も伝承地の一つとなっています。厳瓮を沈めたという深淵「夢淵」、浮いてきた魚を見たという「魚見石」も設えていて、雰囲気はバッチリです。
しかし、ここはかなりの山奥。片道3時間はかかるでしょう。1日仕事です。戦場をまるまる1日も離れますでしょうか。。。
宇陀市迫間の阿紀神社
阿紀神社は、かつては天照皇大神を祀り神戸大神宮と称された神社。
神武天皇、当地「阿騎野」において御祖の神を敬祭り国中へ押し出す時、朝日を後に戴きて日神のご威勢をかり、賊軍を討ち払い御運を開かせ給う
と神社古文書にあるらしいです。「朝原」という文字は見えませんが、ここが朝原の場所だと伝わります。
この場所は皇軍の最前線に位置し、本陣からも近いため、その誓約の結果に味方の兵士たちは勇気を与えられたことでしょう。
宇陀市本郷の八阪神社
私的には、ここが本命なんですが、、、
阿紀神社から、本郷川沿いに少し山間部へ入った所に八阪神社があり、その境内に朝原神社があるらしいです。(私は未確認ですが)ここも朝原の伝承地となっています。
かつて、一村一社政策により村中の神社が有力神社に合祀されていった時代がありました。
この朝原神社も、本郷村のどこか川沿いに鎮座していたものではないかと思い、川沿いを探してみると、、、神社の形跡ではなく「本郷温泉」という温泉を見つけました。
泉質は「硫酸塩泉」。この「硫酸塩泉」を高濃度にして川に流すと、魚は死んでしまいます。
また、温泉の温度次第では結露を利用した「水無し飴」も作れそうですし、本命っぽくないですか?
宇陀市大東の神戸神社
ここも伝承地の一つです。宇陀川のすぐ西ですし、大倉山の本陣からも近いです。
これらの5か所の伝承地は、オレンジ色のマークでプロットしてみました。ご確認くださいませ!
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