日本書紀|第一代 神武天皇⑯|東征伝承とルート~土蜘蛛掃討~
土蜘蛛討伐
己未年(前662)
春 2月20日 諸将に命じて、軍隊を鍛え上げさせました。
時に、
- 層富縣(そほのあがた:添県)の波哆の丘岬に新城戸畔(にいきとべ)、
- 和珥(わに)の坂下にいる居勢祝(こせのはふり)、
- 臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのをかさき)に猪祝(ゐのはふり)
という者がいました。
この三か所の土蜘蛛(つちぐも)は皆、勇猛を自負していて帰順しませんでした。そこで天皇は軍を分けて派兵し、これらを討伐しました。
また、
- 高尾張邑(たかをはりのむら)
にも土蜘蛛がいました。
その姿は、体が短く手足が長く、まさしく「侏儒」に似ていました。
皇軍は、葛で編んだ網で覆いかぶせて、これを殺しました。そこで、その邑の名を改めてを葛城(かづらき)としました。
原文
己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。丘岬、此云塢介佐棄。又和珥坂下、有居勢祝者。坂下、此云瑳伽梅苔。臍見長柄丘岬、有猪祝者。此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。夫磐余之地、舊名片居片居、此云伽哆韋、亦曰片立片立、此云伽哆哆知、逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。 |
かんたん解説
最強の敵「長髄彦」を討伐した神武天皇軍は、まずは、三か所の土蜘蛛退治を行います。
土蜘蛛とは、天皇に従わない集団の総称です。「輩(やから)」みたいな感じでしょうか。
文脈からして、この三か所の土蜘蛛は比較的小規模な勢力で、神武軍からすると小手調べ的な戦いで
層富縣の波̪哆丘の新城戸畔
層富縣は添県とも書きます。古代における県(あがた)の一つで、これが分かれて、添上郡と添下郡とになりました。ですから、生駒市・生駒郡・大和郡山市・奈良市などの奈良盆地北部を指します。
波哆の丘岬は、矢田丘陵から平野部に突き出た岬のような地形を表現しているのでしょう。
●矢田丘陵の東にある赤膚町
●郡山城の南の新木
に比定されているようです。
また、同じく矢田丘陵の東の尾根先に
●「主人神社」があります。
そこは長髄彦の妹「三炊屋媛」を祀る神社で、ここには土蜘蛛伝承が残っています。
昔、この神社へは近くの村から年に一人、怪物のために若い娘を差し出さねばなりませんでした。あるとき旅の僧が村人の嘆きを聞き、愛犬「サン」を連れて神社に向かいます。怪物の正体は境内に棲む老いた土蜘蛛でした。愛犬は土蜘蛛を噛み殺し、自らもクモの毒気で倒れました。そこで村人は愛犬を手厚く葬り、この旅の僧も年老いるまで世話をしました。 |
いずれにしても、①矢田丘陵あたりに新城戸畔がいたとしましょう。
和珥の坂下にいる居勢祝
「居勢」を見ると「巨勢氏」「許勢氏」にも通じるた、め御所市の古瀬を連想します。
一方、「和珥の坂下」とあります。「和珥氏」は奈良の東北部を勢力範囲とした氏族です。天理市櫟本の和爾下神社あたりかもしれません。
②天理市櫟本の居勢祝か、③御所市古瀬の居勢祝か、微妙です。
臍見の長柄丘岬の猪祝
御所市名柄の長柄神社あたりとする説、天理市長柄町とする説があります。
居勢祝と同じく、こちらも④天理市長柄の猪祝か、⑤御所市名柄の猪祝か、微妙です。
高尾張邑の土蜘蛛
名前は出てきませんが、高尾張邑にも土蜘蛛がいたとあります。
「邑」は現在の「村」の概念とは違って、国に近い規模を持ちます。上記の3土蜘蛛とは区別して描かれているところからも、それなりの大きな戦いが繰り広げられたと推察します。
その退治方法から葛城という地名ができたと言及していますので、ここは葛城郡一帯という認識でいいと考えます。
土蜘蛛マップ
直感的に、鵄邑から3か所に軍を別けて向かわせるとするなら、①、②、④が妥当と感じます。
③や⑤まで派兵するとなると、本拠の鵄邑や①の矢田丘陵から離れすぎます。本隊から遠く離れて③や⑤を攻撃した場合、高尾張邑の土蜘蛛からの挟撃されて全滅するは必定。
結論、居勢祝も猪祝も天理市の山沿いに拠点を置く土蜘蛛だったとしておきましょう。
地名の由来
磐余(いはれ)の旧地名は方居(かたい)といいます。または片立(かたたち)とも。この地で、皇軍が敵を破り、その大軍がこの地に集結しましたので。そこで、名を改めて、天皇の名をとって磐余(いはれ)と呼ぶようになりました。
あるいは、
天皇が厳瓮(いつへ)の神饌を召し上がってから出陣し、西の方を討伐された。その時、磯城(しき)の八十梟帥がこの地を「屯聚居(いはみゐ)」としていました。皇軍と大激戦の末、滅ぼされました。そこで、この地を磐余邑(いはれのむら)といいます。
とも伝わっています。
また、皇軍が立誥(たちたけび)した地を猛田(たけだ)といいます。
城を造った所を城田(きた)といいます。
敵軍の死体が、隣の死体の臂(ひじ)を枕にしていた地を頬枕田(つらまきだ)といいます。
天皇が、前年秋の9月に、天香具山の埴土(はにつち)を取り、それで八十枚の平瓮を造り、天皇自ら齋戒して諸神をお祀りしたことで、天下を平定することができたので、埴土を取った所を埴安(はにやす)といいます。
原文
或曰「天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍西征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。屯聚居、此云怡波瀰萎。果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。」又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。 |
かんたん解説
兄磯城との激戦を振り返るように、地名の由来が書き綴られています。
磐余邑(いはれのむら)
現在の桜井市池ノ内あたりと言われています。
皇室にとって神聖なる場所のようで、
- 神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を立太子させた「磐余椎桜宮」
- 履中天皇の「磐余椎桜宮」
- 清寧天皇の「磐余甕栗宮」
- 継体天皇の「磐余玉穂宮」
- 用明天皇の「磐余池辺双槻宮」
など、多くの天皇が磐余邑に宮を築きました。
猛田(たけだ)
伝承地は以下の通り。
昔、大和国に猛田県(たけだのあがた)がありました。それは宇陀市大宇陀下竹だとう説があります。
また、橿原市竹田町に竹田神社があり、このあたりに猛田県主がいたともいわれています。
頬枕田(つらまきだ)
大激戦地ですから、国見丘(経ヶ塚山)から真っすぐ下ったところの大宇陀本郷あたりだと思われます。
埴安(はにやす)
天香具山の北西の麓に式内大社「畝尾坐健土安神社」(うねおにますたけはにやすじんじゃ)があり、ここが埴安の地といわれています。
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