日本書紀|第一代 神武天皇⑰|ヤマト建国

2020年10月29日

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建国の詔

己未年(前662)

天皇は令を下されて、

「私が東征を始めてから、ここに六年が過ぎた。皇天(みおやのあまつかみ)の威力により凶徒を誅殺してきた。ではあるが、辺境の地は未だ鎮静を見ず、残りの賊には強い力を持つものもいる。

しかし、国の中心は完全に治めることがでた。そこで、皇都(みやこ)を拡張して、壮大な宮殿を建設しようと思う。

この国は未だ始まったばかりで、民の心は純朴であり、巣に住み、穴に住み、習俗は変わらない。

そもそも聖人(ひじり)は制度を立てて、道理は時に従うものである。仮にも民に利があることならば、聖人が行うことに妨げなどないはずだ。

そこで、山林を切り開き、宮殿を経営し、謹んで宝位に就き、民(おおみたから)を鎮めよう。

上には、天神が国をお授けくださった徳にこたえ、下には、皇孫が育成された正しい心を広めていこう。

その後に、六合を一つにして都を開き、八紘の隅々までを覆って家とすることは、善いことではないだろうか。

あの畝傍山の東南(たつみのすみ)にある橿原(かしはら)は、国の真ん中のようだから、そこに都を造ろう。」

と詔されました。

この月、役人に命じて、都を造り始めました。

 原文

三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未淸餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」是月、卽命有司、經始帝宅

 かんたん解説

これが建国の詔です。

初代の天皇が国の統治を始めるにあたり、その心構えと方針を述べたものです。

その建国の詔から、私が「これは!」と思う部分を抜き出してみました。

「神々から最も大切な大御宝(おおみたから)として人民を預かっているのだから、何をおいても民のための政治をしなければならない」という思想を感じます。

苟有利民、何妨聖造

「民に利(さち)あれば、聖の行うことに妨げなどない」、言い換えると、「国民を幸せにすることが天皇の仕事である」ということです。

いい言葉ですな。

而恭臨寶位、以鎭元元

「元元」は「おおみたから」と読みます。

「謹んで皇位に臨み、大御宝(民)を鎮める」、すなわち「大切な人民を幸せにするために、私は謹んで天皇となる」という、いわゆる決意表明です。

掩八紘而爲宇

「八紘の隅々までを覆って家とする」と訳しました。

「国中(世界中)のすべてを覆い護って、一つの家族とする」ということですから、人類皆兄弟みたいな感じでしょうね。

いい言葉です。日本書紀編纂当時でも、政治の理想は「和」だったんですね。

最も有名な詔書は?

何をもって有名というのかの議論はおいておくとしまして、個人的に一番強く心に刻まれる詔は、大東亜戦争終結ノ詔書です。

太平洋戦争・日中戦争を合わせて、いや、西欧の植民地とされていた東アジア諸国から列強を追い出すための戦争を大東亜戦争と呼んでいたのですが、その戦争の終結を決断した際に出された詔書です。

玉音放送と言った方がわかりやすいでしょうか。

終戦の日の朝、国民がラジオの前に集まり、ある者は直立不動、またある者は正座で。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」ってやつです。

その内容を読むにつけ、神武天皇が建国の詔で発した天皇の心構えが2000年後の今日においても息づいていることが判ります。

ずっと続いているのですよ。

 

神日本磐余彦火火出見天皇

庚申年(前661)

秋 8月16日 天皇は正妃を立てようとされ、改めて広く家柄の良い乙女を求められました。

時に、ある人が、

事代主神が、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひのみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)を娶って生まれた児で、媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)という乙女がいます。この乙女は、国一番の美しい乙女です。」

と奏上しましたところ、天皇はお喜びになられました。

9月24日 媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とされました。

神武元年(前660)

春 元旦橿原宮にて神武天皇が即位され、この年を天皇の元年としました。

そして正妃を尊んで皇后とされました。皇后は、

  • 神八井命(かむやゐのみこと)
  • 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)

をお生みになりました。

このようなことで、古い言い伝えに神武天皇を讃えて、

「畝傍の橿原に、宮柱を大地の岩にしっかりと立てて、高天原に千木をそそり立て、初めて国を治めた始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)

と申し上げ、その名を神日本磐余彦火火出見天皇(かむ やまと いは れ ひこ ほ ほ で み の すめら みこと)と申し上げます。

初めて天皇が天業の基礎を草創した日に、大伴氏(おほとものうじ)の遠祖(とほつおや)の道臣命が、大来目部(おほくめら)を率いて、密命を受けて、諷歌(たとへうた)・倒語(さかしまごと)を使って、妖気を祓って平定しました。倒語を使いようになったのは、これが始まりです。

 原文

庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」天皇悅之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。

故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。

 かんたん解説

媛蹈韛五十鈴媛命

古事記では、神武天皇の皇后は比売多多良伊須気余理比売」(ひめたたらいすけよりひめ)。

大物主神が朱塗りの矢に化けて、三嶋湟咋(みぞくひ)の娘「勢夜陀多良比売」が用を足しているときに陰部(ほと)を突いて生まれた姫とあります。

日本書紀では、事代主神と三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひのみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)。

その生まれ方も特別で、第8段一書(6)に記載されています。

別伝によると、

事代主神(ことしろぬしのかみ)が八尋熊鰐(やひろのくまわに)に化けて、三嶋の溝杙姫(みしまのみぞくひひめ)【あるいは玉櫛姫】の許へお通いになり、姫蹈鞴五十鈴姫命が生まれました。

そして、この姫命が、神日本磐余彥火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと=神武天皇)の后(きさき)です。

このように、父親も母親も違う別の伝承のように見えますが、重要な共通点もあるのです。

それは、

  • 出雲系の神と三嶋(摂津)土着の部族の娘との間に生まれた姫である点。

九州からやってきて大和を平定したものの未だ不安定だっただろう天孫族を、河内の土豪が支える立場に立ったことは重要です。

次に、

  • 普通の結婚ではない交わり方で生まれた姫である点。

つまり、神武天皇という超特別な天皇の皇后となる姫ですので、普通の美しいだけの姫ではダメなのです。

神の子で、かつ異類婚で生まれた、超特別な霊力を持つ姫でなければならなかったわけで、そういう意味でピッタリの姫だったということです。

始馭天下之天皇

「天下を初めて治めた天皇」という意味なわけですが、実はもう一人いらっしゃいます。

10代崇神天皇も「天下を初めて治めた天皇」という意味の「御肇國天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と称されています。

神武天皇を「はつくにしらす・・・」とするのは日本書紀のみ。一方、崇神天皇を「はつくにしらす・・・」とするのは古事記と日本書紀の両方。

ということから神武天皇架空説の論拠にもなっています。

しかし別の見方として、

建国したという意味の「はつくにしらす・・・」が神武天皇で、勢力圏の拡大や課税などの新しい統治手法の導入を行った天皇という意味の「はつくにしらす・・・・」が崇神天皇であるという説もあります。

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