論功行賞
神武二年(前659)
二月二日 論功行賞が行われました。
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- 道臣命は築坂邑(つきさかのむら)に居所を賜り、特に寵用されました。
- 大来目(おほくめ)には畝傍山の西の川辺に居所を与えられました。今ここを来目邑というのは、これが起源です。
- 珍彦(うづひこ)を倭国造(やまと)としました。
- 弟猾(おとうかし)には猛田邑(たけだのむら)を与え、猛田懸主(あがたぬし)にしました。これが菟田の主水部(もいとり)の遠祖です。
- 弟磯城(おとしき)名を黒速(くろはや)は、磯城縣主(しき)にしました。
- また、劔根(つるぎね)を葛城国造(かづらき)にしました。
- 頭八咫烏も恩賞にあずかりました。その子孫は葛野主殿縣主部(かづののとのもり)です。
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神武四年(前657)
二月二十三日 天皇は勅して、
「我が皇祖の御霊が天より降りて見極めていただき、わが身を照らして助けていただいた。今、諸々の敵は平定し、天下は無地に治まっている。そこで天神を祭り、大孝を申し上げたい。」
とおっしゃり、霊畤を鳥見山の山中に建てられ、そこを上小野(かみつおの)の榛原(はりはら)、下小野(しもつおの)の榛原といいました。そこに、皇祖の天神を祭られました。
原文
二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。珍彥、此云于砮毗故。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名黑速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。
四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。 |
かんたん解説
築坂邑
戦功第一の道臣命には築坂邑が与えられました。橿原市鳥屋町付近に伝承地の石碑があります。
神武天皇の橿原宮の南を守る位置です。
特に目を掛けられたということですが、武力をもって大いに活躍した道臣命の末裔「大伴氏」は、まさに皇室の親衛隊の地位を勝ち取ります。
来目邑
道臣命の実働部隊として勇敢に戦った大来目には来目邑が与えられました。
畝傍山の南東の橿原市久米町に、久米邑の伝承碑や久米御縣神社、久米寺などがあります。
こちらも、神武天皇の橿原宮の南を守る位置です。どうやら南方に脅威があったのかもしれません。
しかしここだと、畝傍山の西の川辺という記述とは一致しませんね。気にしないでおきます。
倭国造
速吸水門で神武軍に合流した椎根津彦(珍彦)は、なんと倭国造に任命されました。といっても大和盆地全体の統治権を得たということではなく、奈良盆地の中央に位置する大和郷を与えられた程度のようですが。
大和郷は、今の天理市にある大和神社(おおやまとじんじゃ)あたりといわれています。
猛田邑
皇軍が立誥(たちたけび)した所だということで名付けられたという「猛田」です。
- 橿原市竹田の竹田神社あたり
- 宇陀市大宇陀下竹
と、2か所が候補となっているようです。
私は、弟猾が後の菟田の主水部(もいとり)の遠祖だということ、神武に味方したことによる本領安堵の意味合いもあっただろうと考え、猛田邑は宇陀市大宇陀下竹ではないかと考えます。
磯城縣主
弟猾が本領安堵を得て「猛田邑」すなわち「大宇陀」を賜ったのと同じように、弟磯城も本領安堵で磯城邑を得たのだろうと考えています。
磯城邑は、三輪山の西麓から金屋にかけての初瀬川沿いの地域だと思われます。
葛城国造
剣根が葛城国造となりました。後年、強大な勢力を誇ることとなる「葛城氏」の祖です。
前述の珍彦・弟猾・弟磯城と同じく、土着の部族でありながら神武天皇に味方したことによる功績を評価されたと考えるのが普通なのですが、剣根の活躍は記紀には描かれていません。
葛木本拠説
先代旧事本紀では、「葛木土神」とあることから葛城一帯を勢力範囲とした部族であったのでしょう。そういう意味では「本領安堵」ですね。
大宇陀本拠説
一方、大宇陀宮奥に剣主神社があります。新撰姓氏録に「葛木忌寸、高御霊命五世孫剣根命の後也」とある剣根命を祭る」とありますので、ここを本拠としていたのかもしれません。
いずれにしても、その活躍の記述がありませんので、
何もしなかったことが功績と評価されたのか、記紀には書けないようなことで功績を得たのか。
興味深いですね。
葛野主殿縣主部
八咫烏にも褒美が与えられ、その子孫が葛野主殿縣主部だと言っています。なので、言い換えると、賀茂建角身命に葛野が与えられたということなのでしょう。
葛野縣はどこなのでしょう。
葛野郡は京都の桂川流域。一方、鴨川流域は愛宕郡です。すなわち、京都の西半分が葛野で東半分が愛宕と言えましょう。ちなみに、上賀茂神社や下鴨神社は愛宕郡にあります。
そう考えると、賀茂一族は桂川流域から鴨川上流部へと移動したということなのでしょうか。
鳥見の霊畤
鳥見山の山中に霊畤(祀りの庭)を作って、皇祖の天神を祀ったとあります。
鳥見山
宇陀市榛原の鳥見山と、桜井市外山の鳥見山の2か所が候補となっています。
「その建てた霊畤を上小野の榛原・下小野の榛原と呼ぶ」とあります。榛原は宇陀市ですから、一般的な見方は、宇陀市榛原の鳥見山の方が有力候補となっているようです。
しかし、読み方によっては、、、
「鳥見山は2つあって、一方の霊畤を上小野の榛原と呼び、もう一方の霊畤を下小野の榛原と呼ぶ」とも読み取れると思うんです。
神武天皇は、宇陀と桜井で大きな戦闘を繰り広げましたから、その両方に皇祖天神を祀ったのではないでしょうか。
日本の美称
神武三十一年(前630)
4月1日 天皇が巡幸されました。腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのをか)に登り、国の状況を御覧になり、
「なんと、いい国を得たことか。内木錦(うつゆふ)の狭い国というが、蜻蛉(あきつ:トンボ)が交尾しながら飛んでいるような形をしているぞ。」
とおっしゃったので、この地を秋津洲(あきづしま)と呼ぶようになったとか。
昔、伊弉諾尊はこの国を名づけて、
「日本(やまと)は浦安の国(うらやすのくに)、細戈の千足る国(くはしほこのちたるくに)、磯輪上の秀眞国(しわかみのほつまくに)だ。」
と言われました。
また、大己貴神(おほなむちのかみ)はこの国を、
「玉垣の内つ国(たまがきのうちつくに)。」
と言われました。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は天磐船(あめのいはふね)に乗り、大空を飛び行き、この国を見られて、天降って来られたので、名づけて、
「虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)。」
と言われました。
神武四十二年(前619)
1月3日 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子(ひつぎのみこ)とされました。
神武七十六年 (前585)
3月10日。神武天皇は、橿原宮にて崩御されました。享年127歳でした。
神武七十七年 (前584)
9月12日 畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)に埋葬申し上げました。
原文
卅有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰「姸哉乎、國之獲矣。姸哉、此云鞅奈珥夜。雖內木錦之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉。」由是、始有秋津洲之號也。昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。秀眞國、此云袍圖莽句爾。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國。」及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是鄕而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣。」
卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子神渟名川耳尊、爲皇太子。 七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。 |
かんたん解説
嗛間丘
御所市の国見山に比定されています。
ここから何を見て、トンボの交尾のようだと言ったのでしょうか、、、
神武天皇陵
畝傍山の東北に葬ったとあります。
現在、橿原神宮の北に「神武天皇陵」があります。方墳です。畝傍山の東北にあたります。
他にも候補地がありますが、私が思う最有力候補は丸山宮跡。
畝傍山の山頂から現神武天皇陵へ降りていく途中にある小丘に丸山宮跡があります。小丘と書きましたが、畝傍山の斜面の凸部のようなもの。
かつてここには「洞」という集落がありました。その人々は神武と一緒に九州からやってきた人々で、神武天皇崩御後は御陵の守衛をしていたという伝承が残っています。
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