日本書紀|第一代 神武天皇⑤|東征伝承とルート~岡田宮から埃宮~
神武天皇は、故郷の南九州を出立して九州の東海岸沿いから大分県に入り福岡県の内陸の主だった部族との協力関係を結びながら岡田宮までやってきました。
神武東征の行程は、ヤマト建国後の協力者を募る旅でもあります。よって、熊本・佐賀・長崎・対馬も無視できません。
「新撰姓氏録」に「稲飯命には新羅王の祖である」とあります。よって、壱岐・対馬・朝鮮半島に至るルートは、稲飯命が話を付けに行ったのでは?と思ってます。
また、五ヶ瀬川に五瀬命の伝承が多く、五ヶ瀬川を遡ると阿蘇へ抜けることができるので、熊本・久留米・佐賀・長崎コースは五瀬命が担当したのでは?と思いました。
さて、ここからの瀬戸内海エリアは強大な出雲王朝の勢力範囲。さらに厳しい交渉をしながら進んで行くことになるのでしょう。
周防灘での遭難
岡田宮を出航して最初の伝承地は周南市です。ここまで1日ではいけないので、途中でいくつかの寄港地があったと思われます。
- 周南市の竹島・・・神武天皇、暴風から避難した場所。船酔いが酷かった。
- 周南市の平野・・・薬草を飲んで気分が良くなったので「たいらの里」→平野
- 周南市の見明・・・海上にかすかにな朝日を見て吉兆と思い「微明」→見明
- 周南市の神上神社・・・この地で仮宮を造営した伝承。腰掛岩あり。
- 周南市の四熊嶽・・・四匹の熊がひれ伏した伝承あり。(ここらの豪族を包含したか?)
周南市から室津半島へ
この後、神武天皇は「船は海を行け。私は陸を行く。」とおっしゃったらしいです。
- 周南市の熊毛神社・・・このあたりに三毛入野命の仮宮を造営したとの伝承あり。
- 周南市の橿原神社・・・御所尾原に行宮を造営したとの伝承あり。
次の場所のどちらかで、船で来た部隊と合流したのかと思います。
- 光市の三井・・・加茂神社
- 光市の三井・・・浅江神社
そこからは船で室津半島へ進みます。
- 熊毛郡の平生・・・日向平に神武の仮宮伝承あり
- 熊毛郡の平生・・・箕の山。山頂に祠があり、神武さまと称する。
- 熊毛郡の室津・・・半島の先端の山頂から瀬戸内海を展望。皇座山という。
- 柳井市の遠崎・・・大畠瀬戸通過のためしばらくここに潮待ちする伝承あり
三毛入野命の岩国開拓
いずれも、神武の兄弟である「三毛入野命」を祀る神社。このあたりの住民は三毛入野命を崇拝しているようですので、神武と分かれて陸上ルートで岩国を目指したと考えられます。
- 岩国市の玖珂町・・・岩隈八幡宮
- 岩国市の周東町・・・岩隈八幡宮には三毛入野命御神陵伝説地もあり。
一方、船で岩国へ向かった神武天皇は、思いがけない場所に伝承を残しています。
- 岩国市・・・柱島
岩国市といっても瀬戸内海のど真ん中。海上交通の要衝です。旧日本海軍の基地があったほどですから。
これから出雲王朝に属する安芸国へ乗り込む神武天皇としては、少なくともこの海域だけは制圧しておきたかったのでしょうか。
- 岩国市の小瀬・・・着神社に神武の寄港伝承あり
岩国の小瀬に上陸したみたいです。
廿日市から西区へ
岩国の小瀬で陸路の三毛入野命と合流して、厳島を見回った後、本土に向かいました。
- 廿日市市の宮島・・・厳島に滞在した、あるいは厳島神社を創祀したとの伝承あり。
- 廿日市市の地御前・・・地御前神社の西の入江に入港した伝承あり。天王社。
- 廿日市市の串戸・・・御衣尾山は衣服を着替えた場所、御手洗川は手を洗った場所
- 廿日市市の宮内・・・的場に行宮伝承あり
的場を出発した神武天皇は、広島湾の西岸に一時滞在したようで、多紀理宮の伝承地となっています。
- 廿日市の可愛・・・神武天皇が寄港した伝承あり。福佐賣神社。
- 五日市町の大字口和田・・・寄港の際、榊を折って地に立てて礼拝した伝承あり。
- 西区の井口・・・寄港伝承あり。井口大歳神社。
- 西区の草津南・・・樽が崎に上陸したとの伝承あり。宇佐の津→草津か?
- 西区の田方・・・草津八幡宮と御幸川の間に多紀理宮があったとの伝承あり
西岸の多紀理宮を出発し、
- 西区の古江西・・・神武天皇出航「入江の漕出」伝承あり。
- 西区の古江・・・寄港伝承あり。新宮神社。
- 安佐南区の祇園・・・安芸津神社の地で朝敵退治の祈願をした伝承あり
- 安佐南区の伴東町・・・火山(ひやま)で募兵の狼煙を上げた伝承あり
そして、太田川を渡って東岸に進出します。
多祁理宮(たけりのみや)
古事記では安芸の「多祁理宮」(たけりのみや)に滞在したとあります。日本書紀では「埃宮」(えのみや)。
古事記が言う「多祁理宮」も日本書紀が言う「埃宮」も、広島県安芸郡の「多家神社」が比定されています。この多家神社は延喜式式内社の名神大社に列する霊験あらたかな神社ですから。
一方で、安芸高田市の吉田町に「埃ノ宮神社」があり、ここが「埃宮」の跡地だという説もあります。ここは周囲を山に囲まれた天然の要害で、そこを流れる江の川を下っていくと、、、
それはとりあえず置いといて、、、
柱島に水軍を配置し、途中の部族を包含しながら岩国から厳島を経て太田川まで進出した神武天皇は、いよいよ太田川の東へ進出します。
そのための拠点が「多祁理宮」。
ここから広島湾東岸の部族を包含して後顧の憂いを断ったのち、内陸部へ移動して「埃宮」を拠点として出雲王朝との交渉に挑んだ。と想像するのです。
というわけで、ここでは「多祁理宮」と表記する次第です。
府中町の伝承
- 府中町の宮の町・・・多家神社の森を「誰曾廼森(だれその森)」という。
- 府中町の宮の町・・・多家神社は、有力な「多祁理宮」の比定地で、当地の人民は出雲族であるところから、大巳貴命を祀って人民の幸福を祈願した場所。
- 府中町の宮の町・・・松崎八幡宮跡に御腰岩の伝承あり
- 府中町の東区??・・・岩谷山に神武登山の伝承あり。岩谷観音寺跡が岩谷山??。??
- 安芸区の船越・・・皇軍の保養地的な場所とのこと
- 安芸郡の矢野町大坊・・・埃宮伝承あり
ちなみに、江田島にも埃宮伝承があります。
- 江田島の切串・・・埃宮伝承あり。洪水のため多祁理宮に遷宮してしまったという。
太田川から江田島に向かった後に府中に移ったのか、府中に宮を江田島を別荘的に使ったのか、、、
呉市の伝承
さて、多祁理宮を拠点として、沿岸部の賊を攻めました。
- 呉市の天応・・・天応山に神武天皇御行幸の伝承あり。
- 呉市の吾妻・・・神武軍が八十梟師を平定した伝承あり
- 呉市の宮原・・・夷あり。八咫烏が飛んできて平らげた。八咫神社。
内陸部の伝承
内陸部の瀬川村へは五瀬命を派遣したといいます。
- 安芸区の瀬野・・・生石子神社が五瀬命の陣所跡との伝承あり。
一方、神武天皇は西条盆地へ進出します。
- 東広島市の西条町・・・新宮神社の社伝に、神武天皇が逗留したという伝承あり
- 東広島市の福富町・・・橿原神社あたりで遊歩された伝承あり
出雲との交渉
安芸国の南部を平定した皇軍は、内陸部深く入っていきます。安芸高田に埃宮を造営しました。出雲との交渉を行うためでしょう。
- 安芸高田市の可愛・・・江の川沿いの「埃ノ宮」に3年間滞在した伝承あり
- 三次市の畠敷・・・旗を立てて陣を敷いた場所との伝承あり。
- 庄原市の本村町・・・神武天皇の仮宮を造営し、葦嶽山に登って比婆山を遥拝す。
本村から出雲へ使者を派遣。出雲と不可侵条約を締結したのでしょう。
- 庄原市の西城町高・・・出雲からの物資を受け取るために来訪した伝承あり
- 庄原市の高野町南・・・出雲との国境で、神武天皇が鬼退治を行ったとの伝承あり
これで、安芸国での活動が完了しました。
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