第一代 神武天皇⑦|東征伝承とルート~河内で大敗~

2020年6月22日

神武天皇は、高嶋宮を出立したのち、兵庫県沿岸に寄港しながら河内国を目指しました。

難波の碕に上陸して神祀りを行い、生駒山を目標に河内湖を東へと航行し、草香邑の白肩津から河内国に上陸しました。

そこで待っていたものは、、、

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孔舎衛坂の戦い

戊午の年(前663)

夏 四月九日 皇軍は兵を整えて徒歩で龍田に向かいました。しかし、道が狭く険しく隊列を組んで進む事ができませんでした。

そこでいったん引き返し、東の生駒山を越えて、中洲(うちつくに:大和)に進軍しようと思いました。

その時、その動きを聞いた長髄彦(ながすねひこ)は、

「天神の御子らが来るというのは、私の国を奪うためだ。」

と言って、全軍を動員して孔舎衛坂(くさえのさか)を遮断し、そこで開戦となりました。

その戦の中で、流矢(ながれや)が五瀬命(いつせのみこと)の肘に当たり、皇軍は進軍を続けることができなくなりました。

神武天皇は悩み、心中で神策を講じて、

「今、私は日の神の子孫なのに、日に向かって進軍している。これは天の道に逆らっている。ここは一旦退却するのがよかろう。

そして天神地祇を祭祀し、背に日神の威を受けて、自分の影を踏みながら進もう。

さすれば、刃を血でぬらすことなく、必ずや敵を打ち負かすことができるだろう。」

と、おっしゃいました。

その神策に対して、皆が、

「おっしゃる通りです。」

と申し上げました。

そこで、全軍に

「しばし、進軍を停止せよ!」

と命令し、軍を退却させました。

敵もあえて追撃してはきませんでした。

草香津まで退却し、盾を立てて雄誥(おたけび)を示したので、この地を盾津(たてつ)といいます。今、蓼津(たでつ)というのは、それが訛ったものです。

これより前の話ですが、孔舎衛の戦いの時に、大きな樹に隠れて、難を逃れた人がいて、

「この樹の恩は、母の恩のようだ。」

といったので、その土地を母木邑(おもきのむら)といいます。今、飫悶廼奇(おものき)というのはそれが訛ったものです。

 原文

夏四月丙申朔甲辰、皇師勒兵、步趣龍田。而其路狹嶮、人不得並行、乃還更欲東踰膽駒山而入中洲。時、長髄彥聞之曰「夫天神子等所以來者、必將奪我國。」則盡起屬兵、徼之於孔舍衞坂、與之會戰。有流矢、中五瀬命肱脛。皇師不能進戰、天皇憂之、乃運神策於沖衿曰「今我是日神子孫而向日征虜、此逆天道也。不若、退還示弱、禮祭神祇、背負日神之威、隨影壓躡。如此、則曾不血刃、虜必自敗矣。」僉曰「然。」於是、令軍中曰「且停、勿須復進。」乃引軍還。虜亦不敢逼、却至草香之津、植盾而爲雄誥焉。雄誥、此云烏多鶏縻。因改號其津曰盾津、今云蓼津訛也。初、孔舍衞之戰、有人隱於大樹而得兔難、仍指其樹曰「恩如母。」時人、因號其地曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。

 かんたん解説

龍田越え

河内湖の湖畔に上陸した一行は、まずは徒歩での龍田越えを選択しました。

ちなみに、東大阪の日下から奈良盆地の桜井市三輪へ大軍を率いていくという想定で、ルートを難易度の低い順に並べると、、、

  1. 河内湖から大和川を遡って王寺に入る
  2. 交野から天の川を遡って白庭に入る
  3. 龍田道を通って王寺に抜ける
  4. 四条畷から清滝峠を越えて白庭に入る
  5. 八尾から十三峠を越えて平群に入る
  6. 東大阪中部から暗峠を通って平群に入る
  7. 東大阪北部から日下直越えで生駒に入る

あたりでしょうか。

1と2の水路は誰でも考える安易なルート。しかし、ナガスネヒコ軍が封鎖しているとの情報をキャッチしたのでしょう。選択しませんでした。特に2はナガスネヒコの本拠地に出ますから選択しませんね。

4・5・6は、生駒山を越えるルート。生駒山は666mと、そんない高い山ではないのですが、大阪側から見ると壁のような急勾配なのです。よしんば越えたとしても白庭や平群はナガスネヒコの本拠地。どう考えても危険です。

7のルートは使われなくなり、今は登山道として残るのみ。その不便さは推して知るべしです。

このようなことから、危険度が一番マシそうな3の龍田越えを選択したんでしょうが、こちらの道にしても、細くて急勾配なことには変わりなく、さらに土地が脆いので引き返したということでしょう。

生駒直越え

龍田越えの次に選択したのは、なんと日下直越えルート。すなわち前述のルート7。普通は選びません。絶対に。

でも選んだ。何故?本当に選んだのなら、進軍以外の何らかの理由があったのでは?と考えました。

今までの神武天皇の東征伝承を見ると、

農耕振興に加えて、その土地で信仰されている神山に登り、そこで大々的に神を祀るという手法を使って、土豪たちを懐柔し包含してきたように思えます。

ここで思い当たるのが「饒速日山」。このあたりには祭祀場跡が発見されていることからも、饒速日尊信仰の聖地だったと思われます。(饒速日山の場所は特定されていませんが、、、)

まさに、神武が瀬戸内海沿岸で行ってきた融和策「祭祀と農耕技術の伝播による融合」を、ここでも行おうと思ったのではないでしょうか。ナガスネヒコが崇拝する饒速日山で祭祀を行うことで。

善根寺の春日神社に「孔舎衙坂直越登」の石碑があります。

孔舎衙坂の戦い伝承地

孔舎衙坂の戦いに関する地元に残る伝承を列記します。

東大阪市だと、

  • 東大阪市の厄山・・・五瀬命が矢傷を負った場所との伝承あり
  • 東大阪市の龍の口霊泉・・・五瀬の矢傷を洗った場所との伝承あり
  • 東大阪市の豊浦・・・母木邑の伝承地。
  • 東大阪市の石切・・・巨石を蹴り上げて誓約をおこなった場所
  • 東大阪市の枚岡・・・神津嶽に神武が天児屋根命と比売神を祀った。枚岡神社の創祇
  • 東大阪の日下町・・・盾津伝承の碑あり。白肩津と同じ場所。
  • 東大阪の梶無・・・盾津を出航した後、強風により舵が折れて遭難の伝承あり

八尾市には、

  • 八尾市の恩智・・・ここにも母木邑の伝承あり。
  • 八尾市の竹渕・・・深い淵に隠れてナガスネヒコ軍の追撃から逃れた伝承あり

このように、孔舎衙から遠く離れた場所にも戦闘の伝承が残っていますので、戦闘範囲は当時の大和川や恩智川の流域全体に広がったのではないでしょうか。

であれば、散々に打ち負かされてしまったように思えます。

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