第一代 神武天皇⑧|東征伝承とルート~名草から新宮へ~

2020年6月22日

ナガスネヒコとの戦闘に敗れ、生駒山地を越えることができなかった神武天皇軍は、日を背にして戦うのがよいとして、紀伊半島を大きく迂回することにしました。

しかし普通に考えますと、紀伊半島を何日もかけて迂回するのはリスキーです。

私見としては、和歌山市から紀ノ川を遡り葛城から大和に入ることを目論み、紀ノ川河口を目指したと考えています。

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五瀬命、薨かる

戊午の年(前663)

夏 五月八日 軍は茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に着きました。またの名を山井水門(やまのゐのみなと)といいます。

その時、五瀬命は矢傷の痛みがますますひどくなり、撫剣(つるぎのたかみとりしばる)して、雄誥(おたけび)して、

「なんとも嘆かわしい!大丈夫(ますらを)でありながら、敵の手に掛り傷を負い、報復もできずに死ぬるとは!」

とおっしゃられました。そこで、時の人はこの地を雄水門(おのみなと)といいました。

更に進軍して紀国の竈山(かまやま)に着いたとき、五瀬命は戦死なさり、その竈山に埋葬されました。

名草戸畔

同年(前663)

夏 六月二十三日 神武天皇は、名草邑(なくさのむら)に到着し、名草戸畔(なくさとべ)を誅殺しました。

そこから狭野(さぬ)を越えて、熊野の神邑(みわのむら)に着き、天磐盾(あめのいはたて)に登られました。

海上遭難

さらに、軍を率いて緩やかに進んで行きました。

ところが、海上で突然の嵐に遭遇し、皇船は大波に揺れ漂ってしまいました。

稲飯命(いなひのみこと)は

「ああ、我が先祖は天神であり、母上は海神である!なのにどうして陸で苦しめられ、海でも苦しめられるのか!」

と言い終わると、剣を抜き海に入られ、鋤持神(さひもちのかみ)となられました。

三毛入野命(みけいりののみこと)もまた、

「我らの母上と姨上は共に海神である!なのにどうして波を起こして、溺れさせようとされるのか!」

と恨み言をおっしゃり、波の先を踏んで、常世郷(とこよのくに)に行かれました。

 原文

五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。亦名山井水門。茅淳、此云智怒。時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。

六月乙未朔丁巳、軍至名草邑、則誅名草戸畔者。戸畔、此云妬鼙。遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進。海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天神、母則海神。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持神。三毛入野命、亦恨之曰「我母及姨並是海神。何爲起波瀾、以灌溺乎。」則蹈浪秀而往乎常世鄕矣

 かんたん解説

河内から熊野への行程を、たったこれだけの文章で済ませています。

というわけで、地元に残る伝承を加えた行程を推測したいと思います。

和泉あたり

茅渟の海は、大阪湾を指します。五瀬命の血が流れたため「血の沼」で「ちぬ」と呼ぶようになったとか。

  • 堺市の西区・・・草部が日下の盾津だとの伝承あり。日部神社。
  • 忠岡町の大津・・・五瀬命の矢傷を洗ったところとの伝承あり

男乃宇刀神社に仮宮を建てて、滞在したようです。男乃は兄・宇刀は弟、という意味らしいです。

  • 和泉市の仏並町・・・土豪の横山彦命が仮宮を造営。そこに滞在した伝承あり。男乃宇刀神社。
  • 和泉市の仏並町・・・狩山に狩りをした時に宿泊した行宮伝承あり。

そこを拠点として紀ノ川沿岸の物見をした形跡があります。

  • 河内長野の天見・・・磐境神籬を造営して天津神を祀った。蟹井神社。
  • 和歌山県の橋本市・・・紀見峠で地勢を視察

ここから紀ノ川に降りて、川沿いを葛城方面に向かうのは、名草一族と葛城土蜘蛛の挟み撃ちに合う危険性があります。ここは冷静に引き返したのでしょう。

  • 泉佐野市内・・・旧地名:東千振にあった神引分神社の辺りで賊を撃退したとの伝承あり。
  • 泉佐野の日根野・・・神武天皇が神を祀って戦勝を祈願したと伝承あり。日根神社。

さらに南へ進みます。

  • 泉南市の樽井・・・五瀬命が傷口を洗ったという山之井がある。ここが山城水門で、五瀬命が雄叫びを上げたので雄水門とよばれるようになった。

もう一か所、雄水門の伝承地があります。

  • 和歌山市の小野町・・・水門吹上神社が五瀬命が崩御した場所と伝わる

竈山

現在、和歌山市を南北に貫く「和歌川」の支流「和田川」の中流に「竈山神社」があり、その北に五瀬命の墳墓があります。

ちなみに、当時の和歌山市内の様子は大阪と同じで、大半が海の中だったと思われますから、竈山の地は海岸だったと考えられます。

(MAP上に紫色のラインで海岸線を表現しております)

  • 和歌山市の和田・・・竈山に五瀬命を葬る
  • 和歌山市の関戸・・・神武軍が陣を敷いた場所との伝承あり。矢宮神社。

このように、兄を葬った場所も、本陣を敷いた場所も、名草エリアです。ということはこのエリアには味方がいたということになりましょう。

東征が終わってからの論功行賞では、神武軍の味方になった一族は本領安堵されるという傾向が見えます。

ヤマト建国後、紀伊国の国造となったのは天道根命。この天道根命の軍勢を頼りに名草戸畔の征伐を行ったのでしょう。

名草戸畔との戦闘

名草戸畔は名草邑を勢力範囲とする名草一族の女首長。神武天皇軍は名草一族と一戦交えることとなりました。

名草邑の範囲は、今の和歌山市と海南市の北部あたりで、本拠は海南市の中言神社あたりとされています。

  • 和歌山市の浜の宮・・・神武軍上陸の地との伝承あり
  • 海南市の琴の浦・・・神武軍が去ると見せかけて、船尾から上陸したとの伝承あり。
  • 和歌山市の内原・・・名草山が名草戸畔の本拠と伝わる
  • 海南市の黒江・・・中言神社が名草一族の本拠と伝わる
  • 海南市の且来・・・クモ池で激戦があったと伝わる
  • 海南市の小野田・・・高倉山に追い詰め、名草戸畔を誅殺したと伝わる

名草戸畔は、クモ池の戦いで神武軍に敗れ、高倉山で殺されて、頭・胴体・足の3つに切断され、それぞれ埋められたといいます。そこには宇部神社(頭)、杉山神社(同体)、千種神社(足)が創建されています。

紀伊水道沿岸

さて、名草戸畔を誅殺したあと狭野を越えて、、、とあるので、狭野は和歌山市・海南市あたりにあるのかと思いきや、なんと紀伊半島の南端を通り過ぎて、新宮市の佐野のことらしいです。

あまりにも飛びすぎるので、その途中にある神武天皇が寄港した形跡が伝承として残っている地名を列記しておきます。

  • みなべ町の岩代・・・岩代に寄港して「しとどの藪」で竹の矢を作ったという伝承あり
  • 白浜町の立ヶ谷・・・神武天皇が東征の時に白浜の古賀浦へ寄港。太刀を埋めて戦の勝利を祈願した場所との伝承あり。太刀ヶ谷神社
  • 白浜町の阪田鼻沖・・・畠島は、神武が上陸して旗を上げたので「旗上げ島」→はたけじま。
  • すさみ町の周参見・・・暴風雨に襲われ避難した港。稲の献上を住民に命じたと伝わる。御泊→小泊
  • すさみ町の周参見・・・稲の献上を命じられた住民が稲束をこの島に積んで献上したことからこの島を稲積島というようになったとの伝承あり
  • 串本町の二色・・・「潮岬」の沖は難所。袋湾の御場の鼻に上陸して天候の良い日を待った。
  • 串本町の橋杭岩・・・橋杭岩のたもとの拝ヶ浜に上陸した。頓宮あり。
  • 紀伊勝浦の八尺鏡野・・・八咫烏神社に神武が休息した伝承あり
  • 新宮市の佐野・・・佐野の隣の三輪崎に狭野顕彰碑あり

熊野灘

佐野に上陸した皇軍は、熊野灘を北上します。日本書紀はこのあと、佐野→神邑→天磐盾→遭難→丹敷戸畔誅殺→高倉下の順に進みます。

まずは、佐野から神邑に行き、天磐盾に登ったとあります。

  • 新宮市の阿須賀神社・・・境内に神邑顕彰碑がある
  • 新宮市の渡御前神社・・・佐野から熊野神邑に行く時の頓宮址との伝承あり
  • 新宮市の神倉山・・・天磐盾山に比定される

しかし、この新宮は敵地だと思うのです。のんびり登山など出来ないと思うのですが、その件は後程。

その後、熊野灘を北上した二木島の沖合で遭難したようです。

  • 熊野市の甫母町・・・盾ヶ崎に神武天皇が上陸した(救助された)との伝承あり
  • 熊野市二木島里町・・・神武天皇が仮住まいした頓宮址と伝わる「テンノサマ」あり
  • 熊野市の二木島町・・・室古神社の地に「稲飯命」が埋葬されたとの伝承あり
  • 熊野市の甫母町・・・阿古師神社の地に「三毛入野命」が埋葬されたとの伝承あり
  • 熊野市の二木島湾・・・二木島祭は、神武天皇を助けるために船を出した様子を再現していると伝わる

さて、新宮に上陸して神倉山に登った神武一行は、新宮を出立して伊勢方面に向かったようです。

伊勢に向かって航行していたと考えたのは、、、

そもそも、孔舎衙の戦いに負けたとき「日に向かっていくのはよくない。日を背にして進むべき」と言って紀伊半島を大きく迂回したのでした。

東から西に進軍して大和国に入るルートといえば、まさしく伊勢から紀伊半島を横断するルートが最も相応しいわけです。

このように、新宮は単なる寄港地のはずだったのですが、遭難したために船を失ってしまいましたので、一旦佐野に戻り、山深い紀伊山地を縦断せざるを得なくなったということになりましょう。

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