日本書紀|第一代 神武天皇⑨|東征伝承とルート~新宮制圧~
二木島沖で遭難し、二人の兄をはじめとして多くの従者と船を無くした神武天皇。伊勢への航海は諦め、二木島に滞在して造船し、一旦佐野に戻ったと思われます。
佐野で態勢を立て直して、、、
丹敷戸畔と新宮平定
天皇は、一人で皇子の手硏耳命(たぎしみみのみこと)と軍勢を率いて進軍し、熊野の荒坂津(あらさかのつ)[亦の名は丹敷浦(にしきのうら)]に到着し、丹敷戸畔(にしきとべ)を誅殺されました。
新宮平定
その時、神が毒気を吐いたので、皇軍はみな病み疲れて力を失い、進軍ができなくなりました。
そんな時、そこにいた熊野の高倉下(たかくらじ)という人が、なぜか夜に夢を見ました。
その夢は、、、
天照大神が、武甕雷神(たけみかづちのかみ)に
「葦原中国(あしはらのなかつくに)がざわざわと騒がしいようですよ。そなたがもう一度行って平定してきてくるのがよろしい。」
とおっしゃられると、武甕雷神は
「私が行かなくても、私が国を平定した時の剣を下ろせば、国は自然に治まるでしょう。」
とお答えしましたところ、天照大神が、
「よろしい。」
とおっしゃいました。
そこで、武甕雷神は高倉下に
「私の剣である韴霊(ふつのみたま)を、今まさにお前の倉に置いておく。それを天孫に献上せよ。」
とおっしゃり、高倉が、
「かしこまりました。」
といった。
、、、という夢でした。
あくる朝、高倉下が夢の教えの通りに倉を開けてみると、剣が倉の底板に逆さに突っ立っているのを見つけたので、天皇に献上した。
その時、天皇は、眠っておられましたが、たちまち目覚められ、
「余(よ)は、なんとも長い間寝ていたことか~。」
とおっしゃられました。毒気にあたっていた兵士たちも、同じく目覚めて元気になりました。
原文
天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津亦名丹敷浦、因誅丹敷戸畔者。時、神吐毒氣、人物咸瘁、由是、皇軍不能復振。時彼處有人、號曰熊野高倉下、忽夜夢、天照大神謂武甕雷神曰「夫葦原中國猶聞喧擾之響焉。聞喧擾之響焉、此云左揶霓利奈離。宜汝更往而征之。」武甕雷神對曰「雖予不行、而下予平國之劒、則國將自平矣。」天照大神曰「諾。諾、此云宇毎那利。」時武甕雷神、登謂高倉下曰「予劒號曰韴靈。韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。今當置汝庫裏。宜取而獻之天孫。」高倉下曰「唯々」而寤之。明旦、依夢中教、開庫視之、果有落劒倒立於庫底板、卽取以進之。 |
かんたん解説
丹敷戸畔三兄弟
丹敷戸畔は、勝浦から新宮を治めていた丹敷一族の首長。戸畔だから女性の首長なのでしょう。
地元の伝承によると、丹敷戸畔には弟が二人いて、その弟たちは神武天皇に恭順したが、首長すなわち戸畔は誅殺されたとあるようです。
遭難前に立ち寄った伝承が残る「浜の宮」と「三輪崎」は、まさに弟の領地だったのでしょう。
そしてその時は伊勢に行く計画だったので、丹敷戸畔を誅殺するまでもなかったのですが、遭難により計画を変更して新宮を通って熊野川を遡るルートを選択せざるを得なくなりました。
となると、熊野灘沿岸の敵対勢力は潰しておく必要があります。というわけで、浜の宮の丹敷弟と三輪崎の丹敷弟と連合して丹敷戸畔を攻めることにしました。
- 那智勝浦町の浜ノ宮・・・丹敷戸畔(弟)の屋敷跡と神武天皇の頓宮址がある。
- 那智勝浦町の狗子ノ川・・・河口の浜を赤色の浜という。兵士たちの血の赤とのこと。
- 新宮市の三輪崎・・・丹敷戸畔が殺された場所との伝承あり。荒坂津神社。
- 新宮市の三輪崎・・・刀の血を洗った場所との伝承あり。御手洗浜。
高倉下
熊野の高倉下。高い倉に下された神剣を神武天皇の献上したから高倉下?いえ、下は主という意味で、高い倉の主という意味らしいです。
先代旧事本紀では、饒速日尊の天で生まれた御子「天香語山命」が天降った後の名としていますが、それはあり得ないという説もあり、混乱しています。
いずれにしても、新宮あたりを統括していた人物だったのではないでしょうか。
というのも、天照大神の「神武を助けよ!」という意向を受けた武甕槌命が大切な神剣を預けることができる人物となれば、かなり高貴な天神でなければ務まりませんから。
物語を整理すると
神武天皇が丹敷戸畔を殺したことで、新宮周辺の部族たちは「侵入者の好き放題にさせてなるまい!」と、一斉に敵に回ってしまったのです。これが毒気を受けて生気を失ったという表現になったと考えました。
そして夢を神託とした地元の実力者である高倉下が「神武は助けるべき人物だ」と説いたことで、新宮あたりに割拠していた部族たちは風に靡くが如く神武に帰順していったのではないかと思うわけです。
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