大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)
第十二代 景行(けいこう)天皇
即位前
大足彦忍代別天皇(景行天皇)は、活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)の第三子で、母は丹波道主王(たにはのみちぬしのおほきみ)の娘で日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)とおっしゃいます。
垂仁37年
皇太子になられました。御年21歳でした。
垂仁99年
二月 垂仁天皇が崩御されました。
景行元年(71年)
七月十一日 皇太子が天皇に即位されました。これにより、元号を改めました。
この年、太歳は辛未(かのとのひつじ)でした。
原 文
大足彥忍代別天皇、活目入彥五十狹茅天皇第三子也。母皇后曰日葉洲媛命、丹波道主王之女也。活目入彥五十狹茅天皇卅七年、立爲皇太子。時年廿一。九十九年春二月、活目入彥五十狹茅天皇崩。
元年秋七月己巳朔己卯、太子卽天皇位、因以改元。是年也、太歲辛未。 |
皇后と皇子
景行2年(72年)
三月三日 播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)ある話では、稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)という。を皇后とされました。
皇后は二人の男子を生みました。
- 第一子を大碓皇子(おほうすのみこ )
- 第二子を小碓尊(をうすのみこと)
とおっしゃいます。
一書には、后は三人の男子を生んだといいます。
- 第三子を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
とおっしゃいます。
大碓皇子と小碓尊とは同じ日に双子としてお生まれになりました。天皇はこのことを奇異に思われ、碓(臼)に向かって叫ばれたので、こに因んで二人の王(みこ)を大碓と小碓と申し上げるのです。
この小碓尊は、亦の名を日本童男(やまとをぐな)、或いは日本武尊(やまとたけるのみこと)とおっしゃいます。
幼い時から勇ましい気性があり、成長すると容貌はますます厳つくなり、身長は一丈、力は鼎(かなへ)を持ち上げるほどでした。
原 文
二年春三月丙寅朔戊辰、立播磨稻日大郎姬一云、稻日稚郎姬。郎姬、此云異羅菟咩爲皇后。后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊。一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子。其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生、天皇異之則誥於碓、故因號其二王曰大碓・小碓也。是小碓尊、亦名日本童男童男、此云烏具奈、亦曰日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉 |
ひとことメモ
小碓尊
後に日本武尊と呼ばれる人です。双子の弟です。
「尊」の尊称が付いています。「尊」が付くのは皇孫の印。ですから、日本武尊は皇統を継ぐべき人だったということになりましょう。
しかし古事記では、小碓命となっていますが、、、
碓
古事記には、名前の由来が記されていなかったので、碓=穀物=五穀豊穣を願ってつけた名前ではないかと思ってましたが、なんと、双子にびっくりした天皇が碓に向かって叫んだからだったんですね。
何と叫んだんでしょう。
古代における双子の出産は、母子ともに極めて危険な出産だったことでしょうから、
ネガティブ系「おい、双子やんけ!どないなってんねん!」的なものか、あるいは、ポジティブ系「よくぞ無事に産まれてきた!神様、ありがとう!」的なものか。
いずれにしても、碓がそれを受け止める立場であったと考えた時、碓と出産には、儀式的な何らかの関連性があったのではないかと思いました。
ちなみに、石ヘンの碓なので、石臼なんでしょう。
石と出産といえば、神功皇后が出産を遅らせるために腹に抱いたのも石。やはり、碓と出産は関係がありそうな。
鼎
古代中国で飲食物を煮るのに用いた、二つの耳と三本の足をもつ金属製の大きな釜のような容器。とんでもなく重い物で、一人では到底持ち上げることなどできない代物です。
このように「重たい物」の象徴として使われることが多い「鼎」ですが、皇位・帝位・王位といった「権力」の象徴という側面もあります。
ここでも小碓尊の皇位継承権をほのめかしているように思えるのです。
武内宿禰の誕生
景行3年(73年)
二月一日 天皇は、紀伊国に行幸して諸々の天神地祇をお祀りしようと占われたところ、不吉とでたので中止されました。
そこで、屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)ある話では、武猪心(たけゐこころ)といいます。を遣わして、祭るよう命令しました。
屋主忍男武雄心命は、阿備(あび)の柏原(かしははら)に参上し、そこで天神地祇をお祭りました。そこに住むこと九年、紀直(きのあたひ)の遠祖である菟道彦(うぢひこ)の娘の影媛(かげひめ)を娶り、
- 武内宿禰(たけうちのすくね)
を生みました。
原 文
三年春二月庚寅朔、卜幸于紀伊國將祭祀群神祇、而不吉、乃車駕止之。遣屋主忍男武雄心命一云武猪心、令祭。爰屋主忍男武雄心命、詣之居于阿備柏原而祭祀神祇、仍住九年、則娶紀直遠祖菟道彥之女影媛、生武內宿禰 |
ひとことメモ
阿備の柏原
和歌山市松原に「武内神社」があり、ここが阿備の柏原だと言われています。
武内宿禰が産湯を使ったとされる井戸が残されていて、紀州徳川家に子どもが生まれたときは、この井戸の水を産湯として使ったと伝わっています。
武内宿禰
古代日本史上の最高の大臣の誕生です。
記紀の内容では、景行天皇から仁徳天皇までの5代の天皇に仕えたことになってますから、これから300年以上にもわたり、常に天皇の右腕として大活躍します。
300年以上も。伝説の大臣としか言いようがないですね。
名前を世襲した可能性もあります。また、何人もの大臣のいい所を寄せ集めて「理想の大臣像」を創造したのかもしれません。
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