日本書紀|第十二代 景行天皇④|豊後の平定

2020年10月29日

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豊後の平定-速津媛-

十月 碩田国(おほきたのくに)に着かれ、その地が広大で美しかったので碩田(おほきた)と名付けられました。

さらに進み、速見邑(はやみのむら)に着かれると、そこに速津媛(はやつひめ)という女性がいました。その女性は一所の長でした。

速津媛は、天皇が来られていることを聞き、自らお出迎えして

「この山には鼠の石窟(いわや)という大きな石窟があり、そこに二人の土蜘蛛(つちぐも)が住んでおります。一人は青、もう一人は白といいます。

また、直入縣(なほりのあがた)の禰疑野(ねぎの)には、三人の土蜘蛛がおりまして、一に打猨(うちさる)、二に八田(やた)、三に国摩侶(くにまろ)といいます。

この五人はなかなかに強力で、大勢の仲間を抱えております。皆『天皇には従わない。』と申しており、もし強引に攻めると、兵を起こして拒むでしょう。」

と進言しました。天皇はこれを憎みましたが、ひとまずは攻撃されずに来田見邑(くたみのむら)にお留まりになり、行宮を建てて住まわれました。

 原 文

冬十月、到碩田國。其地形廣大亦麗、因名碩田也。碩田、此云於保岐陀。到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言「茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟。一曰靑、二曰白。又於直入縣禰疑野、有三土蜘蛛、一曰打猨、二曰八田、三曰國摩侶。是五人、並其爲人强力、亦衆類多之、皆曰『不從皇命。』若强喚者、興兵距焉。」天皇惡之、不得進行、卽留于來田見邑、權興宮室而居之。

 ひとことメモ

碩田国

碩田(おおきた)というのは、大分(おおいた)のことです。碩田国の範囲は大分県ではなく大分市レベルの大きさかと思います。

さて、大分県のHPは、次のように言ってます。

景行天皇がこの地に着いたとき、広大な土地を見て「碩田」と呼ぼうと言われた。しかし、大分平野はとてもじゃないが広大とは言い難い。むしろ地形は狭くて複雑なので、「多き田」が「大分」になったという見解が最近の定説。

速見邑

今の大分県別府市・速見郡・杵築市あたりのことです。

大分に到着して、北へ進んで別府へ、あるいは杵築市まで。そこで首長の速津媛の服従を受けた天皇軍は、別府湾沿岸部全体を押えた格好です。

いよいよ、奥地の土蜘蛛討伐に乗り出します。

來田見邑の行宮

大分県竹田市久住町あたりとされます。その久住町大字仏原に「宮処野 (みやこの) 神社」があり、ここが行宮の場所だと伝わります。

 

豊後の平定-土蜘蛛討伐-

天皇は、群卿を集めて話し合い、

「今、大軍を動かして土蜘蛛を誅殺したいと思う。もし、我が兵力を恐れて賊どもが山野に隠れてしまったら、間違いなく後の憂いとなるであろう。」

とおっしゃいました。

相談の結果、海石榴(つばき)の樹を採ってきて、椎(木槌)を作って武器としました。

そして、勇ましい兵を選び、その武器を持たせて、山を穿ち草を払い、石窟の土蜘蛛を襲撃し、稲葉の川上で撃破し、その一党を皆殺しにしましたので、血がくるぶしまで流れました。

なので時の人は、海石榴の椎を作った所を海石榴市(つばきち)といい、血が流れた所を血田(ちだ)と呼んだのです。

次に、打猨を討とうとして、禰疑山(ねぎのやま)を渡りました。その時、賊どもは矢を山の横手から射掛けてきたので、皇軍の前に雨のように降りかかってきました。

天皇は皇軍は城原(きはる)まで退却し、川の畔で占い、兵を整えて、まずは八田を攻撃し禰疑野で破りました。

これを見た打猨は、勝つことは出来ないと思い、降伏を願い出ましたが聞き入れられず、谷に身を投げて死にました。

 原 文

仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。

 ひとことメモ

稲葉川の川上

青と白の土蜘蛛は、石窟を追われて稲葉川の川上へ逃げた所を討たれたと理解しました。

この稲葉川は、くじゅう連山から流れる川で、下流は大野川と名を変え、大分市で別府湾に注ぐ川です。

血田

血が踝まで、、、という血田は、今の野市緒方町知田だということになってます。

このようなことから、鼠の石窟にいる青と白の土蜘蛛は、竹田市の稲葉川沿いを本拠にしていたのではないかと考えました。

禰疑山

禰疑山(ねぎのやま)がどこを指すのかはわかりませんが、城原から禰疑野へ行く途中なんだろうと考えますと、大字川床あたりの山中でしょうか。。。分かりません。

禰疑野

竹田市大字今字宮ノ前に、禰疑野神社があります。ここが禰疑野だとされています。景行天皇が兵士の奮闘をねぎらったから「ねぎの」と名付けられたとのこと。

 

蹈石の由来と三柱の神

さて、

最初に賊を討つために、柏狭(かしはお)の大野に宿営されたとき、その野に長さ六尺・幅三尺・厚さ一尺五寸の大きな石がありました。

天皇は誓約をされて、

「朕が土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴るときに、柏の葉のように舞い上がれ」

とおっしゃて、石を蹴られると、柏の葉のように大空に舞い上がりました。ゆえに、この石を蹈石(ふみし)というのです。

この時、お祈り申し上げた神は

  • 志我神(しがのかみ)
  • 直入物部神(なほりのもののべのかみ)
  • 直入中臣神(なほりのなかとみのかみ)

の三神(みはしらのかみ)ででした。

 原 文

天皇、初將討賊、次于柏峽大野、其野有石、長六尺・廣三尺・厚一尺五寸。天皇祈之曰「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而舉焉。」因蹶之、則如柏上於大虛。故、號其石曰蹈石也。是時禱神、則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣。

 ひとことメモ

三柱の神

  • 志我神・・・志加若宮神社(豊後大野市朝地町宮生)
  • 直入物部神・・・籾山八幡社(竹田市直入町大字長湯)
  • 直入中臣神・・・直入中臣神社(由布市庄内町阿蘇野)

ちなみに、直入中臣神社の境内に「蹈石」があります。

 

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