日本書紀|第十二代 景行天皇⑤|熊襲征伐

2020年10月29日

スポンサーリンク

熊襲梟帥の征伐と火国造

十一月 日向国(ひむかのくに)に着かれて、行宮(かりみや)をお建てになり、住まわれました。これを高屋宮(たかやのみや)といいます。

十二月五日 熊襲(くまそ)を討伐するための軍議を開きました。天皇は群卿に詔して

「聞くところによると、襲の国には厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)という熊襲の渠帥者(いさお)がおり、大変多くの兵力を持っているらしい。

こいつらが熊襲の八十梟帥(やそたける)と言われていて、勢い盛んで対抗できるものがいないとか

少ない軍勢では賊を壊滅させることができないが、大軍で攻めると人民に害を及ぼしてしまう。武力を行使することなく、坐してこの国を平定する手立てはないものか。」

とおっしゃいました。その時、一人の臣下が進言して、

熊襲梟帥(くまそたける)には、二人の娘がいます。姉を市乾鹿文(いちふかや)、妹を市鹿文(いちかや)といいます。容姿端麗して、雄々しい心を持っています。

高価な贈り物をして招き入れれば、熊襲梟帥の消息を窺い知ることができ、不意を突けば、刀を血で濡らすことなく賊は自ずと敗れるでしょう。」

と申し上げました。天皇は詔して、

「それは、いい案である。」

とおっしゃいました。

そこで、天皇は贈り物を示して騙し、二人の娘を幕下に招き入れられました。

天皇は市乾鹿文を召して、寵愛するように見せかけましたので、市乾鹿文は天皇に奏上して、

「熊襲が従服しないことについては心配いりません。私にいい計画がありますので、一人か二人の兵を私につけてください。」

と申し上げました。

市乾鹿文は家に戻り、沢山の豊醇なお酒を用意して父に飲ませましたので、父は酔っぱらって寝てしまいました。市乾鹿文が、ひそかに父の弓の弦を切ると、そこに兵の一人が入ってきて、熊襲梟帥を誅殺しました。

天皇は、この親不孝を大変お嫌いになり、市乾鹿文を誅殺され、妹の市鹿文を火国造(ひのくにのみやつこ)とされました。

 原 文

十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」

於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰「無愁熊襲之不服。妾有良謀、卽令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火國造。

 ひとことメモ

熊襲

九州の南部にあったとされる襲国(そのくに)を本拠とする、大和王権に抵抗した人々のことを熊襲といいます。また、その居住地域自体を熊襲ということもあります。

では、その熊襲・襲国とは、どこのことを指すのでしょうか。

熊本県人吉市から球磨川上流部と、鹿児島県霧島市あたりの、2か所が熊襲の中心だったと言われています。

球磨郡あさぎり町の才園古墳からは、刀剣・玉・馬具などの多くの遺物が出土してますが、その中でも2世紀~3世紀に中国で作られたとみられる「リュウ金獣帯鏡」は、金が鍍金された金色に輝く鏡で、造られた日本では3枚しか発見されていない宝物です。

また、同じあさぎり町の免田地区から出土した弥生式土器は、「免田式土器」と命名されるほど特徴的な土器で、その造形美はもちろんのこと、非常に薄く焼く技術力には目を見張るものがあるといいます。

このように見ると、熊襲の人々は、大きな勢力を持ち、大陸から学んだ高い技術力を誇る、いわゆる文明人だったのかもしれませんね。

日向高屋宮

熊襲征伐の前線基地として滞在した「日向の高屋宮」の伝承地をいくつか挙げておきます。

宮崎県に集中してますので、この当時の宮崎県はヤマト王権の力が及ぶ範囲だったということでしょう。

  • 黒貫寺・・・宮崎県西都市岩爪
  • 高屋神社・・・宮崎県西都市岩爪
  • 高屋神社・・・宮崎県宮崎市村角町
  • 天子山・・・鹿児島県肝属郡肝付町北方

 

日向国造

景行13年(83年)

五月 襲国(そのくに)を悉く平定されました。このようにして、高屋宮に居られたのは六年間でした。

ところで、この国に名を御刀媛(みはかしひめ)という美人がいて、すぐに妃として召され、

  • 豊国別皇子(とよくにわけのみこ )

を生みました。これが日向国造(ひむかのくにのみやつこ)の始祖です。

 原 文

十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛御刀、此云彌波迦志、則召爲妃。生豐國別皇子。是日向國造之始祖也。

 ひとことメモ

とくにございませんです。

 

思邦歌

景行17年(87年)

三月十二日 子湯縣(こゆのあがた)に行かれ、丹裳小野(にものおの)でお遊びになりました。その時、東を向いて、近習に、

「この国はまっすぐに日の出る方を向いている」

と申されられたので、この国を日向(ひむか)といいます。

 

野中の大石に登られて、京都(みやこ)を偲ばれて読まれた歌は、

愛しい我が家の方向から 雲が湧き流れてくることよ
大和は最も秀でた国 青々とした山が重なって 垣根のように包んでいる 大和の国は美しい
生命力の溢れている人は 平群の山の白橿の枝を 髪飾りとして髪に挿せ この子よ

これを、思邦歌(くにしのびのうた)といいます。

 原 文

十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、

波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮
夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試
異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固

是謂思邦歌也。

 ひとことメモ

子湯縣の丹裳小野

子湯縣は旧児湯郡で、今の児湯郡に西都市と日向市の美々津を加えたエリアを指します。

丹裳小野の伝承地は、西都市の三宅神社の南。民家の庭に踏み石があり、そこがそうらしいです。

もう一つは鹿野田神社の南の小山。日陰の峯と呼ばれる場所です。

 

 

スポンサーリンク