日本書紀|第十二代 景行天皇⑦|筑紫後国巡幸

2020年10月29日

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筑後国

七月四日 筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)の御木(みけ)の高田行宮(たかたのかりみや)に居られました。

そんな時、倒れた樹がありました。長さが九百七十丈(3kmほど)もある樹です。役人たちが、その樹を踏んで往来しました。時の人が詠んだ歌は、

御木の小橋 群臣が 渡っていくよ 御木の小橋

そこで天皇が

「このれは何の樹じゃ?」

とお尋ねになりました。一人の老夫が、

「この樹は歷木(くぬぎ)といいます。まだ倒れていなかった頃は、朝日の光が当たると、その影で杵嶋山(きしまのやま)を隠し、夕日の光に当たると阿蘇山(あそのやま)を隠しました。」

とお答えしました。そこで、

「この樹は神木だ。だから、この国を御木国(みけのくに)と呼ぶがよかろう。」

とおっしゃいました。

同月七日 八女縣(やめのあがた)に着き、そこから、藤山(ふじやま)を越えて、南の粟岬(あはのさき)を望まれて詔して、

「あの山の峰々が重なっていて、とても美しい。もしやあの山には神が居られるかもしれない。」

とおっしゃいました。水沼縣主の猿大海(さるおほみ)が奏上して、

「女神がいらっしゃいます。八女津媛(やめつひめ)といいます。常に山の中に居られます。」

とお答えしました。八女国(やめのくに)の名は、このようにして起こったのです。

八月 的邑(いくはのむら)に着き、食事をされました。この日、膳夫等(かしはでら)が盞(うき:盃)を忘れましたので、時の人はそこを浮羽(うきは)と呼びました。今、的(いくは)というのはそれが訛ったものです。

昔、筑紫の人は盞(うき:盃)のことを浮羽(うきは)と言っていました。

 原 文

秋七月辛卯朔甲午、到筑紫後國御木、居於高田行宮。時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、

阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆瀰 伊和哆羅秀暮 瀰開能佐烏麼志

爰天皇問之曰「是何樹也。」有一老夫曰「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」天皇曰「是樹者神木、故是國宜號御木國。」丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。八月、到的邑而進食。是日、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。昔筑紫俗號盞日浮羽。

 ひとことメモ

地名について

筑紫後国・御木国

筑紫後国は、後の築後国で、御木(みけ)・御木国(みけのくに)は三池郡のこと。

「月が~出た出た~」でお馴染みの「炭鉱節」に登場する三池炭鉱の三池です。

高田行宮

福岡県大牟田市歴木(くぬぎ)にある高田公園内に、高田行宮の石碑があります。

杵嶋山

「朝日は杵嶋山、夕日は阿蘇山」とあります。

阿蘇山は阿蘇山です。

杵嶋山は杵島郡と武雄市の境目に南北に連なる山地の北から2つ目の山です。

古代においては、この山地の麓まで海岸線が迫っていたため、対岸から見た時は島のように見えたと思われます。おそらくこの山地まるまる杵嶋と呼ばれていたのではないかなと思います。

八女縣・藤山・粟岬

八女縣は現在の八女市周辺のことを指します。八女縣の北のはずれが藤山で、ここを越えて筑後川流域へ出たのでしょう。

その時に南の粟岬を見て「山々が重なり、、、」とおっしゃいました。粟岬という地名は残っていません。おそらく、八女の南に突き出た山地の稜線を粟岬と表現したのではないかと思います。

あるいは、山地の先端が海に接していたのかも。そうであれば、まさに岬です。

八女津媛

景行天皇が「神の山ではないか?」とおっしゃた山の奥の奥、奥八女の矢部村に「八女津媛神社」があり、八女津媛が祀られています。

 

景行天皇 大和帰還

景行19年(89年)

九月二十日 日向(ひむか)から大和にお帰りになりました。

 

景行20年(90年)

二月四日 五百野皇女(いほののひめみこ)を遣わして天照大神をお祭りさせました。

 

景行25年(95年)

七月三日 武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣して、北陸及び東方諸国の地形や人民の様子を調べさせました。

景行27年(97年)

二月十二日 武内宿禰が東国から還って奏上して、

「東の辺境の中に、日高見国(ひたかみのくに)があり、その国の人は、男女とも髪を鎚の形に結い、入れ墨をして、人となりは勇猛果敢。これを総じて蝦夷(えみし)といいます。また、土地は肥沃で広々としています。攻めて取ってしまいましょう。」

と申し上げました。

 原 文

十九年秋九月甲申朔癸卯、天皇至自日向。

廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女、令祭天照大神。

廿五年秋七月庚辰朔壬午、遣武內宿禰、令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之消息也。

廿七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍。是總曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」

 ひとことメモ

五百野皇女

景行天皇の皇女で、伊勢の斎宮として派遣されました。

伊勢の地で天照大神を祀るという意味では、倭姫命に次ぐ2代目ということになります。

宮中を出た天照大神を祀るという意味では、豊鍬入媛命(崇神天皇皇女)、倭姫命(垂仁天皇皇女)に次いで3代目ということになりましょう。

日高見国

日高見国とは、固有の地名ではないようです。

日高=日の上・日の出という意味で、日高見国=日の出を見る国という意味になり、「東の方にある国」という程度のぼんやりとした範囲をさすようです。

大祓詞の中に、「大倭日高見国を安国と定めて、、、」とあります。

天孫降臨当時は、日向が皇孫の本拠だったので、東方の大和を日高見国と呼んだのでしょう。そして、時を経て大和が皇孫の本拠となった今、さらに東の国々を日高見国と呼んだのです。

東北地方を流れる北上川。「きたかみ」≒「ひたかみ」と考えると、大和朝廷の勢力が関東まで広がった後の日高見国は東北地方のことを指すようになったと考えられますね。

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