日本書紀|第十二代 景行天皇⑧|東国経営と近江の牽制

2020年10月29日

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皇后の薨去

景行52年(122年)

五月四日 皇后の播磨太郎姫(はりまのおほいらつめ)が薨去されました。

七月七日 八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)を皇后とされました。

 原 文

五十二年夏五月甲辰朔丁未、皇后播磨太郎姬薨。秋七月癸卯朔己酉、立八坂入媛命爲皇后。

 

東国の経営

景行53年(123年)

八月一日 天皇は群卿に詔して

「朕は愛する子を偲ぶのを、いつになったらやめることができるのだろうか。願わくば、小碓王が平定した国を巡幸してみたいのだが。」

とおっしゃいました。

そしてこの月に、 天皇は伊勢に行幸されて、転じて東海に入られました。

十月 上総国(かみつふさのくに)に入り、海路で淡水門(あはのみなと)を渡られました。この時、覺賀鳥(かくかのとり)の声を聞き、姿を見たいと思われて、海に入られ、白蛤(うむき)を獲られた。

膳臣(かしはでのおみ)の遠祖の磐鹿六鴈(いはかむつかり)が、蒲(がま)を手繦(たすき)にして、その白蛤を、膾(なます)にして、献上しました。

この功により、六鴈臣の功を賞して、膳大伴部(かしはてのおほともべ)をお与えになりました。

十二月 東国(あづま)より伊勢に滞在されました。これを綺宮(かにはたのみや)といいます。

 原 文

五十三年秋八月丁卯朔、天皇詔群卿曰「朕顧愛子、何日止乎。冀欲巡狩小碓王所平之國。」是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。十二月、從東國還之、居伊勢也、是謂綺宮。

 ひとことメモ

淡水門(あわのみなと)

今の浦賀水道のことを指すという説と、千葉県の館山湾を指すという説があります。

淡は安房のことを指し、水門を港とするならば、なんとなく館山湾の方がしっくりきますが、淡水門を渡ったとなれば、浦賀水道の方が自然です。

潮流の激しい海峡を速吸門(はやすいのと)と呼ぶが如く、潮流が速い浦賀水道を淡水門と呼んだかもしれないです。

綺宮(かにはたのみや)

三重県鈴鹿市加佐登町の畑の隅に石碑が立っています。加佐登町といえば、、、

そうです。日本武尊が崩った「能褒野」がこのあたりです。景行天皇は、我が子の最期の地に行宮を建てて滞在し、日本武尊を偲んだのでしょう。

↓白鳥陵候補地もプロットしておきました。↓

 

御諸別王(みもろわけのみこ)

景行54年(124年)

九月十九日 伊勢より倭の纒向宮(まきむくのみや)に戻られました。

景行55年(125年)

二月五日 豊城命(とよきのみこと )の孫の彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を東山道(やまのみち)の十五国の都督(総督)に任命しましたが、春日(かすが)の穴咋邑(あなくひのむら)に到着したとき、病に臥して薨られた。

東国の人民は、王(みこ)が来られないのを悲しみ、ひそかに王の遺骨を盗んで、上野国(かみつけのくに)に埋葬しました。

景行56年(126年)

八月 彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)の子の御諸別王(みもろわけのみこ)に詔して、

「お前の父は、任務地に赴くことができずに、早くに薨じてしまった。お前が代わって東国を治めよ。」

とおっしゃいました。

こうして御諸別王は、天皇の命を承り父の遺業を成し遂げたいと思い、すぐに東国へ行って治め、早々に善政を行うことが出来ました。

時に、蝦夷らが騒動を起こしましたが、すぐに挙兵してこれを攻撃すると、蝦夷の首領の足振邊(あしふりべ)・大羽振邊(おおはふりべ)・遠津闇男邊(とおつくらおべ)らが降参してやってきて、自らの罪を認め、その領地を献上しました。

降参するものは許し、従わない者は誅殺しました。これにより、東国は長く平安となりました。今もその子孫が東国におります。

 原 文

五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮。

五十五年春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。

五十六年秋八月、詔御諸別王曰「汝父彥狹嶋王、不得向任所而早薨。故、汝專領東國。」是以、御諸別王、承天皇命且欲成父業、則行治之、早得善政。時、蝦夷騷動、卽舉兵而擊焉、時蝦夷首帥足振邊・大羽振邊・遠津闇男邊等、叩頭而來之、頓首受罪、盡獻其地。因以、免降者而誅不服、是以東久之無事焉。由是、其子孫、於今有東國。

 ひとことメモ

東山道(やまのみち)の総督

近江国から美濃、信濃、北関東を経て東北地方までの十五か国の総督となれば、相当な勢力となります。絶大なる信頼がないと任せもらえない大役です。

その大役に、豊城命の子孫が任命されました。

豊城命

その豊城命は、豊城入彦ともいいます。10代崇神天皇の皇子で、弟の活目尊が垂仁天皇になりました。

豊城入彦と活目尊は、どちらも甲乙つけ難いぐらいに優秀だったらしく、崇神天皇はどちらを皇太子にするか迷いに迷って、結局、夢占いで決めることにしました。

兄の豊城入彦の見た夢は「御諸山に登り、東に向いて刀を振り回す夢」。武闘派ですね。
対して、弟の活目尊の見た夢は「御諸山に登り、四方に縄を張ってスズメを追い払う夢」。農業重視。

このことから、活目尊を皇太子とし、豊城入彦命を東国を治めるために派遣しました。

このことから、東国経営は、豊城入彦命の子孫の運命なのかもしれません。

春日の穴咋邑

一般的に、春日穴咋邑は今の奈良市古市町で、猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地とされています。

しかし、纏向宮から東国へ向かった彦狭嶋王が病に倒れたというには、あまりにも近すぎると思うのです

また、「東国の人民が悲しんで遺骨を盗んで、、、」とありますが、東国から奈良まで遺骨を盗みに来るのも、ちょっと、、、と思います。

そこで、

長野県佐久市に、春日という地区があります。そこに春日城というお城があるのですが、その別名が「穴小屋城」というらしいです。「春日の ”あなくい” 」と「春日の “あなこや” 」、微妙に似てませんか?

さらに、そこから2kmほど北に諏訪神社があり、その境内に円墳があります。「王塚古墳」という名称なのですが、地元では「彦狭嶋王御陵墓」と称してお祭りしています。

実際のところはわかりませんが、

急峻な信濃の山々を越えに越え、諏訪富士とも呼ばれる蓼科山をも越え、「さあ、あとは碓氷峠を残すのみだ!」といった所で、病に倒れた彦狭嶋王。

ここまで行ったからこそ、東国の人々も悲しみ、遺骨を持ち帰って上野に埋葬して、東国を見せてあげようという気持ちにもなったんじゃないかなと思います。

御諸別王

ということであるからして、息子の御諸別王も、「父が果たせなかった東国入りを、絶対に果たして見せる!父の無念を晴らすのじゃ!」的なモチベーションが保てたし、善政を行うことが出来たのではないかと思います。

 

崩御

景行57年(127年)

九月 坂手池(さかてのいけ)を造り、そして堤に竹を植えました。

十月 諸国に命じて、田部(たべ)と屯倉(みやけ)を設置しました。

景行58年(128年)

二月十一日 近江国に行幸され、志賀に三年間滞在され、これを高穴穂宮(たかあなほのみや)といいます。

景行60年(130年)

十一月七日 天皇が高穴穂宮で崩御、享年106歳でした。

 原 文

五十七年秋九月、造坂手池、卽竹蒔其堤上。冬十月、令諸國興田部屯倉。

五十八年春二月辛丑朔辛亥、幸近江國、居志賀三歲、是謂高穴穗宮。

六十年冬十一月乙酉朔辛卯、天皇崩於高穴穗宮、時年一百六歲。

 ひとことメモ

 

高穴穂宮

滋賀県大津市穴太に、高穴穂神社があります。ここが高穴穂宮の跡といわれています。

景行天皇が3年、成務天皇が61年、仲哀天皇が半年ほど、ここを宮としました。

では、景行天皇が大和から近江に遷都した理由は、なんでしょうか。それは、防衛でしょう。

ここまでで、日本武尊の活躍などもあり、景行天皇は大和から東海道と東山道を押えました。

しかし、そのころ、垂仁天皇の御代に渡来してきた天日槍の勢力が、敦賀・若狭・丹後・但馬・播磨を支配し、息長氏が近江の東北部を支配していました。さらに近江南東部は天日槍が残していった陶人の居住地でした。

そして、天日槍と息長氏は、おそらく同族。もしくは協力関係にあったと思います。

ヤマト王権にとって、目の上のタンコブ的な勢力といえましょう。

この勢力が、琵琶湖から河内へ進出すると、ヤマト王権の九州から大陸へという交通ルートが閉ざされてしまいます。万事休すです。

そうならないよう、琵琶湖の出口を押えたのでしょう。

このマップを見るとよくわかりますが、日本武尊が負けたという伊吹山の荒ぶる神とは「息長氏」だったのかもしれません。

ここからは想像ですが、

日本武尊は、近江を避けて伊勢から尾張に入り、尾張で軍を整えて東国へ向かいました。

帰りは東山道を通り(もしくは東山道を開きながら)尾張へ帰還。尾張で再び軍備を整えて米原の息長氏征伐へと出陣。

しかし返り討ちに会って戦死しました。息長氏&天日槍連合軍は強かったのです。

記紀ともに、ヤマト軍が息長軍に負けたとは書けなかったので、草薙剣を忘れていったこと、油断したことを負けた理由とした。

なんて。

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