日本書紀|第二十六代 継体天皇⑩|物部麁鹿火大連と磐井の乱

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磐井の乱

継体21年 丁未ひのとのひつじ 527年

二十一年夏六月三日、近江おうみ毛野臣けなのおみ「37」が、兵六万を率いて任那みまなに行き、新羅しらぎに破られた南加羅ありひしのから喙己呑とくことん「38」を回復し、任那みまなに合併しようとしました。

このとき、筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いわい「39」が、密かに反逆を企てていました。失敗を怖れて躊躇しているうちに年が経ちましたが、常に隙を窺っていました。

新羅しらぎがこれを知って、こっそり磐井いわいに賄賂を送り、毛野臣けなのおみの軍を妨害するように勧めました。

そこで磐井いわいは火国と豊国で職務をせず、外では海路で待ち伏せして、高麗こま百済くだら新羅しらぎ任那みまななどの国の貢物を運ぶ船を誘って奪い、内では任那みまなに遣わされた毛野臣けなのおみの軍を遮って、無礼な揚言ようげんをして、

「今お前は朝廷の使者になっているが、昔は我が仲間で、肩や肘をすり合せ、同じ釜の飯を食っていたではないか。にわかに使者になったからといって、俺がお前に従うというのか」

と言って、交戦して従わず、驕りたかぶっていました。

毛野臣けなのおみは防がれて、中途で停滞してしまいました。

天皇は大伴大連金村おおとものおおむらじかねむら物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかい許勢大臣男人こせのおおおみおひとらに詔をして、

筑紫ちくし磐井いわいが反乱して、西の異民族の地を所有している。今、誰か将軍になるべきか?」

と言われました。

大伴大連おおとものおおむらじら皆が、

「正直で仁勇に富み、兵事に精通しているのは、今、麁鹿火あらかいの右に出る者はいません」

とお答えすると、 天皇は、

「ゆるす」

と言われました。

 原 文

廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣率衆六萬、欲往任那爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年、恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍。

於是、磐井、掩據火豐二國、勿使修職、外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」遂戰而不受、驕而自矜。是以、毛野臣乃見防遏、中途淹滯。天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。

 

物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじに討伐命令が下る

秋八月一日詔して、

「ああ、大連おおむらじよ。磐井いわいが従わない。お前が行って討て」

と言われました。

物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじは再拝して、

磐井いわいは西の異民族のずるい奴です。川が阻むのを助けとして朝廷に従わず、山が高いのをたのみとして、乱を起こしたものです。徳を破り道に反していて、人を侮辱して高慢です。

昔、道臣から室屋があり、帝を守り罰を与えてきました。人民を苦しみから救うこと、昔も今もこれ一つです。ただ、天の助けを得ることは、私が常に重要だと思っていることろです。恭順しなければ征伐いたします」

と言いました。

天皇はみことのりして、

「良い将の軍は、恩を施し恵を大事にして、己を律して人を治める。そして、河が決壊するがごとく攻め込み、風が吹くごとく戦うのだ」

と言われ、また、

「大将は民の命を司っておる。国家の存亡ここにあり。はげめ。謹んで天誅を行うのだ」

と言われました。

天皇は自ら斧鉞「40」をとって、大連に授けて、

長門ながとより東の方は朕が治めよう。筑紫ちくしより西はお前が治めよ。賞罰も任せた。報告することもいらぬ」「41」

と言われました。

 原 文

秋八月辛卯朔、詔曰「咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。」物部麁鹿火大連再拜言「嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、敗德反道、侮嫚自賢。在昔道臣爰及室屋、助帝而罰・拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。」

詔曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重詔曰「大將、民之司命。社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天皇親操斧鉞、授大連曰「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」

 

物部大連VS磐井

継体22年 戊申つちのえのさる 528年

冬十一月十一日、大将軍の物部麁鹿火もののべおあらかいは、敵の首領である磐井いわいと、筑紫ちくし三井郡みいのこおり「42」で交戦しました。

両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のあげる塵埃は相乱れ、勝機は両陣営の間にあって、多くの死者を出しても退きませんでした。

そして、ついに磐井いわいを斬り、境を定めました。

十二月、筑紫君葛子つくしのきみくずこは、父に連座して誅せられることを恐れ、糟屋の屯倉かすやのみやけ「43」を献上して、死罪を免れることを願い出ました。

 原 文

廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接、決機兩陣之間、不避萬死之地。遂斬磐井、果定疆場。

十二月、筑紫君葛子、恐坐父誅、獻糟屋屯倉、求贖死罪。

ひとことメモ

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近江の毛野臣

近江の毛野臣は謎の人物とされていますが、国学院大学古事記学センターによると

近江国滋賀郡を本拠地とした、武内宿禰の子である波多八代宿禰の後裔氏族「近江臣毛野」である

と明確に断じています。

近江臣毛野と近江の毛野臣とは違うような気もしますが、国学院大学が言っているのだから信じたいと思いますが、、、

「兵6万を率いて」です。これは当時としてはとんでもない大軍です。これだけの大軍を率いる人物となると、物部氏か大伴氏、あるいはそhして大王家に近しい人のうちの誰かではないかと想像します。

 

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南加羅ありひしのから喙己呑とくことん

南加羅ありひしのからは、新羅の南に接する小国で、喙己呑とくことんは、新羅の西に接する小国です。

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筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いわい

筑紫の国造だったかどうかは別として、姓は筑紫君だったようです。

福岡県八女市吉田にある岩戸山古墳は磐井の墓とされています。ヤマト王権の古墳にも匹敵する大きさや豪華な副葬品は、北九州地域を統治するに足る大きな勢力を持っていたことを物語っています。

九州王朝説もあるほどです。

その勢力・財力は、独自に展開した朝鮮半島との交易によるものと推察され、前述の4県割譲や己汶こもん带沙たさの百済併合は、そこに手勢を入植させていたと思われる磐井にとって、苦々しいものだったのではないかと推察します。

このように、大きな勢力を持ったこと、そして、その財源が危うくなりつつあることなどが、反乱の要因になったと思われます。

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斧鉞

君主が出征する将軍に統率のしるしとして斧鉞を渡すという儀式が古代中国にあったらしいです。将軍は戦車にそれを掲げて戦ったとのこと。

馬印のようなものですかね。

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物部麁鹿火大連もののべおあらかいのおおむらじ

饒速日尊を祖とする物部氏の宗家当主です。

今回の出陣で、天皇から「筑紫以西はお前に任せる」との言葉を頂きました。スゴイ!と思うのですが、、、

元々、物部氏は北九州出身の氏族であり、筑紫以西の統治を任せると言われても、旧領地を与えられるだけのことで、朝鮮半島との交易権が大伴金村大連に抑えられている以上、大きなメリットは無かったんじゃないかと思います。

そもそも、この文章は中国の史書「芸文類聚」から引用しているので、史実かどうかは疑問なのですが、、、

ちなみに、物部麁鹿火大連には後継ぎがいなかったようで、饒速日尊を祖とする物部氏の宗家は、断絶することになります。枝系がたくさんあるので、また別の系統が宗家となるんですけど。

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筑紫の三井郡

福岡県久留米市東部から太刀洗町西部にかけてあった郡を御井郡といいます。筑紫の三井とはそのあたりだと思われます。

磐井一族の本拠地と思われる八女市吉田や八女郡広川町から10kmほど北上した筑後川あたりが戦場になったのでしょうか。

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糟屋の屯倉

糟屋の屯倉は、福岡県糟屋郡付近にあった屯倉で、阿恵官衙あえかんが遺跡という飛鳥時代の役所跡が屯倉の中心ではないかとの説があります。

ここにヤマト王権の出先機関が出来ると、朝鮮半島との交易の拠点とすることができるようになります。

これは大きな戦利品と言えそうです。

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