任那王「己能末多干岐」の嘆願
夏四月七日、任那王、己能末多干岐「48」が来朝しました。己能末多というのは、おそらく阿利斯等であろう。
大伴大連金村に、
「海の向こうの諸国に、胎中天皇(応神天皇)が官家を置かれてから、もとの国を排除せず、もとの国に管理させたのは、それが道理だからです。
今、新羅は、元々に与えられた土地を違えて、何度も境を越えて侵略してきます。願わくば、天皇に申し上げ、私めの国をお救い下さい」
と申し上げました。
大伴大連は、乞われるままに奏上しました。
原 文
夏四月壬午朔戊子、任那王己能末多干岐、來朝 言己能末多者、蓋阿利斯等也、啓大伴大連金村曰「夫海表諸蕃、自胎中天皇置內官家、不棄本土、因封其地、良有以也。今新羅、違元所賜封限、數越境以來侵。請、奏天皇、救助臣國。」
大伴大連、依乞奏聞。 |
来なかった百済王と新羅王
この月、使者を遣わして、己能末多干岐を国に送らせました。あわせて、任那にいる近江毛野臣に詔され、
「奏上するところ取り調べ、疑い合っているのを和解させよ」
と言われました。
そこで毛野臣は熊川(現:慶尚南道昌原市) ある本によると任那の久斯牟羅に泊まったといいます に宿泊して、新羅・百済の二国の王を招集しました。
新羅の王である佐利遅は、久遅布礼 ある本によると久礼爾師知于奈師磨里といいます を遣わし、百済は恩率弥騰利を遣わして、毛野臣のところに赴いて集まり、二王が自ら来ることはありませんでした。「49」
原 文
是月、遣使送己能末多干岐、幷詔在任那近江毛野臣「推問所奏、和解相疑。」於是、毛野臣、次于熊川 一本云、次于任那久斯牟羅 召集新羅・百濟二國之王。
新羅王佐利遲、遣久遲布禮 一本云、久禮爾師知于奈師磨里、百濟、遣恩率彌騰利、赴集毛野臣所、而二王不自來參。 |
毛野臣は大いに怒る
毛野臣は大いに怒り、二国の使者を責めて問いただしました。
「小さなものが大きなものに仕えるのは、天の道理である。ある本では「大木の枝には、大木の枝を継ぐ。小木の枝には小木の枝を継ぐ」と言ったと伝わります。
どうして二国の王が自ら参集して天皇の詔を受けずに、小物を遣わしたのか。
今、お前たちの王が、自ら来て勅を聞こうとしても、俺はあえて勅を伝えずに、必ず追い返してやる!」
と言いました。
久遅布礼と恩率弥騰利は、心中恐れ慄き、それぞれ帰還して王を呼びました。
これによって新羅は、改めて上臣である伊叱夫礼智干岐 新羅では大臣を上臣といいますを遣わして、兵三千を率いて来て、詔を聴きたいと願い出ました。
毛野臣は遠くから、数千の兵が取り囲んでいるのを見て、熊川から任那の己叱己利の城に入りました。
伊叱夫礼智干岐は、多々羅の原に宿泊し、敬意を持って帰順することをせず三ヶ月が過ぎました。
何度も勅を聞きたいと願い出ましたが、許されることはありませんでした。
原 文
毛野臣大怒、責問二國使云「以小事大、天之道也。一本云「大木端者、以大木續之。小木端者、以小木續之。」何故二國之王、不躬來集受天皇勅、輕遣使乎。今縱汝王自來聞勅、吾不肯勅、必追逐退。」久遲布禮・恩率彌縢利、心懷怖畏、各歸召王。
由是、新羅、改遣其上臣伊叱夫禮智干岐 新羅、以大臣爲上臣。一本云、伊叱夫禮知奈末 率衆三千、來請聽勅。毛野臣、遙見兵仗圍繞衆數千人、自熊川入任那己叱己利城。伊叱夫禮智干岐、次于多々羅原、不敬歸待三月、頻請聞勅。終不肯宣。 |
新羅の金官侵略
伊叱夫礼智が率いた兵士たちは、村落で食料を乞い、毛野臣の従者の河内馬飼首御狩のところにも立ち寄りました。
御狩は他人の家の門に隠れ、乞う者が立ち去ると、ゲンコツで遠くから殴るまねをしました。兵卒はこれを見て、
「謹しんで待つこと三ヶ月、勅旨を聞こうと待っていたが、 今なお許されない。勅旨を聴く使者を悩ませる、欺いて上臣を誅殺しようとしているのだな」
と言いました。
上臣は四つの村を略奪しました。金官、背伐、安多、委陀の四村「50」です。ある本には、多多羅、須那羅、和多、費智と伝わります すべての民衆を本国に連れ帰ってしまいました。
ある人が言いました。
「多多羅などの四つの村が略奪されたのは、毛野臣の失敗だ」
秋九月、巨勢男人大臣が亡くなりました。
原 文
伊叱夫禮智所將士卒等、於聚落乞食、相過毛野臣傔人河內馬飼首御狩。御狩、入隱他門、待乞者過、捲手遙擊。乞者見云「謹待三月、佇聞勅旨、尚不肯宣。惱聽勅使、乃知欺誑誅戮上臣矣。」乃以所見、具述上臣。上臣抄掠四村、金官・背伐・安多・委陀、是爲四村。一本云、多多羅・須那羅・和多・費智爲四村也。盡將人物、入其本國。或曰「多々羅等四村之所掠者、毛野臣之過也。」秋九月、巨勢男人大臣薨。 |
ひとことメモ
任那王、己能末多干岐
任那王とは?おそらく、大伽耶連盟の盟主国「伴跛国」のことでしょう。その国王となれば異脳王のことを指すと考えられます。
「伴跛国」は、過去には百済が己汶と滞沙を奪い取ったとき日本の対応に不満を持ち、ひと悶着ありました。新羅と結んだこともありました。
しかし今は、百済から進攻され、新羅からも進攻され、頼みの綱は日本だけという状態だったのでしょう。
ちなみに、任那は日本から見たときの呼び名であって、その実体は大伽耶連盟です。
両国の王が来ることはなかった
前述したとおり、決裁権のある人物が来ることはないです。
今や百済も新羅も、朝鮮半島の覇権を制するために、いかにして大伽耶連盟(任那)を切り崩すかが課題だったはずですので、それを取りなすような調停にノコノコ出てくるはずがないんです。
もっというと、4県割譲から始まった任那(大伽耶連盟)経営に対するヤマト朝廷の弱腰姿勢から、ヤマト朝廷は舐められてしまっていたように感じます。
慰安婦問題・徴用工問題・竹島問題、、、今もそうですね、、、
金官、背伐、安多、委陀
金官、背伐、安多、委陀は、金官国を構成する主要4村だとされています。
よって、ここを略奪されたということは、新羅が金官国を併合したということでしょう。
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