継体24年の詔
継体24年 庚戌 530年
二十四年春二月一日、詔して、
「磐余彥之帝(神武天皇)、水間城之王(祟神天皇)から、皆、博識な臣たち・道理に明るい者を助けとしてきた。
例えば、道臣命の進言で神日本(神武天皇)は隆盛になられた。また、大彦(孝元天皇の皇子)の策略をもって膽瓊殖(崇神天皇)は隆盛になられたのだ。
継体の君主が中興の功を立てたいなら、どうして賢明な人々の謀議に頼らずにおれようか。
小泊瀬天皇(武烈天皇)が天下を治められても、幸いにそれまでの天皇の聖を承って、平かな日々が続いたが、俗人は次第に暗くなり目覚めないし、政治は衰えに浸りだしても改めなかった。
各人の能力をもって進むのをひたすら待つのみである。大略がある者は細かいことは気にせず、才長けた者は失敗を責めない。そのようなことで、国体は保たれ、国を安泰にすることができる。これを見れば、どうして有能な補佐が不要と言えるだろうか。
朕が帝位を承って、今二十四年、天下泰平、内外に憂いなく、土地は肥え、作物は豊作である。ここに潜む恐怖は、人民がこれに馴れてしまい、驕りの気持ちを持ってしまうことである。
ゆえに、精錬潔白な人を選んで、大いなる道を示して広く教化しよう。有能な官人を登用することは、昔から、難しいとされている。朕自身を思う時、なんで慎まないでおれようか」
と言われました。
原 文
廿四年春二月丁未朔、詔曰
「自磐余彥之帝・水間城之王、皆頼博物之臣・明哲之佐。故、道臣陳謨而神日本以盛、大彥申略而膽瓊殖用隆。及乎繼體之君、欲立中興之功者、曷嘗不頼賢哲之謨謀乎。爰降小泊瀬天皇之王天下、幸承前聖、隆平日久、俗漸蔽而不寤、政浸衰而不改。但須其人各以類進、有大略者不問其所短、有高才者不非其所失。故、獲奉宗廟、不危社稷、由是觀之、豈非明佐。朕承帝業、於今廿四年、天下淸泰、內外無虞、土地膏腴、穀稼有實。竊恐、元々由斯生俗・藉此成驕。故、令人舉廉節、宣揚大道、流通鴻化。能官之事、自古爲難。爰曁朕身、豈不愼歟。」 |
近江毛野の所業
秋九月、任那の使者が奏上して、
「毛野臣は久斯牟羅に住居をつくり、滞留すること二年 ある本には三年とありますがこれは往来の年も含んでいます、政務を怠っています。日本人と任那人との間に生まれた子供の帰属の争いは決め難いものでですが、判断する能力がありません。
毛野臣は好んで 誓湯 「51」を設け、『正しい者は爛れないが、嘘を言う者は必ず爛れる』と言って、熱湯の中に投げ入れ、爛れ死ぬ者が多く出ています。
また、吉備韓子那多利、斯希利を殺したり「52」 大日本人が朝鮮の女を娶って生まれた子を韓子といいます、常に人民を悩まし、このまま融和することはないでしょう」
と申し上げました。
原 文
秋九月、任那使奏云
「毛野臣、遂於久斯牟羅起造舍宅、淹留二歲 一本云三歲 者、連去來歲數也、懶聽政焉。爰以日本人與任那人頻以兒息、諍訟難決、元無能判。毛野臣、樂置誓湯曰、實者不爛、虛者必爛。是以、投湯爛死者衆。又、殺吉備韓子那多利・斯布利 大日本人娶蕃女所生、爲韓子也、恆惱人民、終無和解。」 |
姑息な毛野臣
天皇はその行状を聞き、使者を出して召還させました。しかし来ませんでした。
かわりに河内母樹馬飼首御狩を京に送り、
「私め、まだ勅を果さないまま京に戻ったならば、苦労して出向いて、何もできずに戻ることになり、恥ずかしく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。伏して願わくば、任務を果してから参内し、謝罪申し上げるのをお待ち下さい」
と奏上させました。
この天皇への使いを出したあとに考えて、
「調吉士は天皇の使者である。もし俺よりも先に帰り、事実を奏上すれば、俺の罪科は必ずや重くなるだろう」
と言い、調吉士を遣わして、兵を率いさせ、伊斯枳牟羅城を守らせました。
阿利斯等(任那の王)は、毛野臣が小さくつまらぬことばかりして、約束を実行をしないことを知り、何度となく帰国を勧めたが、なおも帰還することを聞き入れませんでした。
原 文
於是、天皇聞其行狀、遣人徵入。而不肯來。顧以河內母樹馬飼首御狩奉詣於京而奏曰「臣、未成勅旨。還入京鄕、勞往虛歸、慙恧安措。伏願、陛下、待成國命入朝謝罪。」
奉使之後、更自謨曰「其調吉士、亦是皇華之使。若先吾取歸、依實奏聞、吾之罪過必應重矣。」乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城。 於是、阿利斯等、知其細碎爲事・不務所期、頻勸歸朝、尚不聽還。 |
ひとことメモ
誓湯
誓湯は、盟神探湯ともいわれる古代の裁判方法の一つです。
熱した泥の中に手を入れて、火傷をしなければ正しい、火傷をしたらウソをついている
というような判決方法です。
間違いなく火傷しますよね。だから自白させるための手法とも言えましょうか。
古くは、応神天皇紀に盟神探湯が登場します。反乱を起こそうとしているという疑いを掛けられた武内宿禰が、盟神探湯によって無実が証明されるというお話です。
吉備韓子那多利、斯希利
韓子は、日本人と韓人の混血の子のことを言います。よって、この名前は、
吉備出身の日本人と現地の女性との間に生まれた那多利と斯希利
ということになります。
そして、この二人の名前から、吉備国の人も朝鮮半島に入植していたことが伺えます。
何のために入植していたかといえば、おそらくは交易のためでしょう。
北九州の豪族が独自で半島に進出して富を得ていたのと同じように、吉備も交易による富を得ていたと考えられます。
北九州の磐井はその勢力をたのみに反乱を起こしました。これまた同じことが吉備に起こらないとも限りません。
吉備の反乱は、ヤマト朝廷として最も恐れるところです。そのような理由から二人を殺したのであれば、毛野臣が政治や外交の能力が低かったことは否めませんが、決して暴虐の人とは言えないと思いますよ。
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