日本書紀|第二十六代 継体天皇⑭|新羅と百済が任那を浸蝕・継体天皇崩御

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百済・新羅・任那の連合軍

毛野臣けなのおみの)行状をすっかり知ったので、(阿利斯等ありしとの)心に離反の気持ちが生まれ、久礼斯己母くれしこも新羅しらぎに送り援軍を要請し、また、奴須久利ぬすくり百済くだらに使いに出して援軍を要請しました。「53」

毛野臣けなのおみ百済くだらの兵が来るのを聞き、背郡へこおり 背評は地名で、またの名を能備己富里のびこほりといいます で迎え撃ちましたが、半分が死傷しました。

百済は奴須久利ぬすくりを捕らえて、手かせ足かせ首くさりをつけて、新羅軍と共に城を囲みました。そして、阿利斯等ありしとを責め罵って、

毛野臣けなのおみを出せ」

と言いました。

毛野臣は城を固めており、捕らえることが出来ませんでした。このため二国は良さそうな土地を測量するために一か月滞在し、城を築いて帰りました。これを久礼牟羅城くれむらのさしといいます。

帰る時、道すがらに、 騰利枳牟羅とりきむら布那牟羅ふなむら牟雌枳牟羅むしきむら阿夫羅あぶら久知波多枳くちはたきの五つの城を取りました。

 原 文

由是、悉知行迹、心生飜背、乃遣久禮斯己母使于新羅請兵、奴須久利使于百濟請兵。毛野臣、聞百濟兵來、迎討背評 背評地名、亦名能備己富里也、傷死者半。百濟、則捉奴須久利、杻械枷鏁而共新羅圍城、責罵阿利斯等曰、可出毛野臣。毛野臣、嬰城自固、勢不可擒。於是、二國圖度便地、淹留弦晦、筑城而還、號曰久禮牟羅城。還時觸路、拔騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳五城。

 

毛野臣の死、葬送の歌

冬十月、調吉士つきのきし任那みまなから到着し、

毛野臣けなのおみは人となりが傲慢でひねくれ者、そして政治には向いてないようです。

最後まで和解することなく、加羅からを攪乱させてしまいました。自分の思いにまかせて政治を行い、災いを防ぐことをしません」

と奏上しました。そこで目頰子めずらこ 目頰子については未詳です を遣わして帰国を命じました。

この年、毛野臣は帰国命令を受けて対馬に到着したとき、病で死にました。

葬送のために、川に沿って進み近江に入りました。

その妻が歌いました。

ひらかたゆ ふえふきのぼる あふみのや けなのわくごい ふえふきのぼる

枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る

河を遡って、枚方を通って、笛を吹きながら上って行く。近江の毛野の若殿が、笛を吹きながら、川を上ってくる

目頰子めずらこが始めて任那みまなに着いたとき、そこにいた日本の人が歌を贈りました。

からくにを いかにふことそ めづらこきたる むかさくる いきのわたりを めづらこきたる

韓国を 如何に言ことそ 目頰子来る むかさくる 壱岐の済を 目頰子来る

韓国に何を言おうとして 目頰子は来たのだろうか。遠く離れた壱岐の海路を、目頰子が遣って来た

 原 文

冬十月、調吉士至自任那、奏言「毛野臣、爲人傲恨、不閑治體、竟無和解、擾亂加羅、倜儻任意而思不防患。」故、遣目頰子、徵召。目頰子、未詳也。是歲、毛野臣、被召到于對馬、逢疾而死。送葬、尋河而入近江。其妻歌曰、

比攞哿駄喩 輔曳輔枳能朋樓 阿苻美能野 愷那能倭倶吾伊 輔曳符枳能朋樓

目頰子、初到任那時、在彼鄕家等、贈歌曰、

柯羅屨儞嗚 以柯儞輔居等所 梅豆羅古枳駄樓 武哿左屨樓 以祇能和駄唎嗚 梅豆羅古枳駄樓

 

継体天皇崩御

継体25年 辛亥かのとのゐ 531年

二十五年春二月、天皇は病が重くなられました。

七日、天皇は磐余いわれ玉穂宮たまほのみやで崩御されました。

享年八十二歳でした。

冬十二月五日、藍野陵あいののみささぎ「54」に埋葬申し上げました。

ある本によると、天皇は即位二十八年に崩御としている。それをここで二十五年に崩御としたのは、百済本記によって記したから。

百済本記では、
「太歲辛亥三月に、進軍して安羅に至り、乞屯城こつとくのさしを造営した。この月、高麗はその王である安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子、皇子は、一緒に亡くなられた」「55」(安閑天皇①へ飛びます)

とあります。
辛亥の歳は継体25年に当たります。 後に勘校した者がこれを知ったので。

 原 文

廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云廿五年歲次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者、知之也。

ひとことメモ

kt-1-53

百済と新羅に援軍要請

なんかおかしな展開になってきました。

百済と新羅に東西から侵略を受けていた大伽耶(任那)が、その両国に援軍を要請するという事態が発生しました。

毛野臣すなわち日本勢を排除するという目的で、この三国の利害が一致したということかと思いきや、百済軍は任那からの使者に手かせ足かせをかけて(罪人扱い)、任那王に圧力をかけます。

そして、毛野臣が籠る城に総攻撃をかけることなく、周辺に自分たちの城を築き、また、帰り道の城をいくつか取りました。

利害関係が一致したのではなく、任那王は百済と新羅に、任那国内に進軍する大義名分を与えただけだったのです。

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藍野陵あいののみささぎ

宮内庁は、茨木市太田にある太田茶臼山古墳を、継体天皇の御陵に治定していますが、そこから東へ1.5Kmほどの高槻市郡家新町にある今城塚古墳が真の継体天皇陵ではないかという説が一般的になりつつあります。

というのも、太田茶臼山古墳から5世紀中頃の埴輪片が発見されたためです。継体天皇の年代より一世紀ほど前の築造である可能性が出てきたわけです。

一方の今城塚古墳からは6世紀前半の埴輪が発見されています。ちょうど継体天皇の年代と合致するのです。

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日本書紀巻第十七  完

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