日本書紀|第二十六代 継体天皇②|越前国から樟葉宮へお出ましになる

スポンサーリンク

男大迹王をおどおうをお迎えに行く

継体元年 丁亥ひのとのゐ 507年

元年春一月四日、大伴金村大連おおとものかなむらのおおむらじはまた諮って、

男大迹王をおどおうは、慈しみや仁愛にあふれ親孝行な性格をしておられ、天緒あまつひつぎを継がれるべきお方である。ねんごろに進めて、皇統を盛んにしようではないか」

と言いました。

物部麁鹿火大連もののべのあらかいのおおむらじ許勢男人大臣こせのおひとのおおおみらもまた口を揃えて、

「ご子孫を詳しく調べてみても、賢者は男大迹王をおどおうだけのようだ」

と言いました。

六日におみむらじらを遣わして、しるしをもって御輿みこしを準備して、三国にお迎えに上がりました。

護衛隊が挟み守り、容儀を整え、馬で先導して先払いして、突然訪問しました。すると男大迹天皇をおどのすめらみことは、どっしりと落ち着いた様子で床几に腰をかけ、陪臣は列をなして並んでいて、既に天皇がいらっしゃるようでした。

しるしを持った使者たちは、これを見てかしこまり、心を傾け命を委ねて忠誠を尽くしたいと願いました。

 原 文

元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰「男大迹王、性慈仁孝順、可承天緖。冀慇懃勸進、紹隆帝業。」物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰「妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。」

丙寅、遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三國。夾衞兵仗、肅整容儀、警蹕前駈、奄然而至。於是、男大迹天皇、晏然自若、踞坐胡床、齊列陪臣、既如帝坐。持節使等、由是敬憚、傾心委命、冀盡忠誠。

 

馬飼首荒籠うまかいのおびとのあらこが三日三晩にわたり説得

けれども天皇は、まだなお心の中では疑っていたので、長い間、皇位に就きませんでした。

天皇がたまたま知っていた 河内馬飼首荒籠こうちのうまかいのおびとあらこ 「8」が密かに使者を差し上げて、大臣おおおみ大連おおむらじらがお迎えしようとしている本意を細かくお伝え申し上げました。

使者が二日三晚逗留した後、ついに天皇は発たれ、溜息をついて喜ばれて、

「うれしいぞ、馬飼首うまかいのおびと よ。もしお前が使者を送って知らせてくれなかったら、私は天下の笑い者になるところだった。

世に言う、『貴賤きせんを論ずるなかれ、心だけをただ重んずるべし』というのは、荒籠あらこのことを言っているのだな」

と言われました。

皇位に就かれてから、厚く荒籠あらこを寵愛なさいました。

十二日に天皇は 葛葉宮くずはのみや 「9」にお出ましになられました。

 原 文

然天皇、意裏尚疑、久而不就。適知河內馬飼首荒籠、密奉遣使、具述大臣大連等所以奉迎本意。留二日三夜、遂發、乃喟然而歎曰「懿哉、馬飼首。汝若無遣使來告、殆取蚩於天下。

世云、『勿論貴賤、但重其心。』蓋荒籠之謂乎。」及至踐祚、厚加荒籠寵待。甲申、天皇行至樟葉宮。

 

ひとことメモ

kt-1-8

河内馬飼首

馬飼首とは、馬を飼う民部「馬飼部」を管理監督する役割の一族です。馬飼造を上官としますので、中間管理職的な位置づけでしょうか。

河内国は大阪府東部にあった国。ただ当時は摂津国・和泉国も河内国だったので、河内国=大阪府と考えてもいいかもしれません。

河内国には馬飼が多かったそうです。かつての河内湾・河内湖の沿岸部だった四条畷・大東・東大阪あたり、淀川の沿岸だった枚方・寝屋川あたりから馬の骨や馬具が発見されています。

主な遺跡としては、

藤阪南遺跡(枚方市)・奈良井遺跡(四条畷市)・蔀屋北遺跡(四条畷市)

でしょうか。

ここで登場した「荒籠」は、枚方市楠葉あたりの淀川沿岸に牧を持っていました。河内に分布した牧から馬が集められ、各地へと運ばれる物流拠点です。なので、楠葉の港には多くの船が入ったといわれています。

そのよう立地である上に、馬飼部は各地の豪族に馬を売り、そこで馬の世話をさせていましたから、そこで見聞きした情報がすべて馬飼首に集約されるという、諜報機関のような役割も果たしていたともいわれています。

 

本文に戻る

kt-1-9

葛葉宮くずはのみや

大阪府枚方市楠葉丘2丁目にある交野天神社の境内に、葛葉宮の伝承地があります。石清水八幡宮がある男山の南麓にあたります。

継体天皇は大和に宮を造らず、まずは枚方の楠葉に引っ越ししました。このあたりで遷都を2回。大和入りは20年以上経ってからとなります。

どうして楠葉なのでしょうか。その理由は不明ですが、いくつかの仮説が展開されていますので、列記しておきます。

①大和国内に、天皇が大和国に入ることを拒絶する勢力があり入れなかったためとする説。

後で述べますが継体天皇は早期に巨大な勢力圏を構成しているようですので、20年も大和に入れないぐらいの抵抗勢力は無かったのでは?とも思いますが、あるとすれば、、、

武烈天皇と百済王族の女との子(と私は考えてます)である「法師君」を担ぐ勢力があったのかも知れません。

②敢えて大和内に入らず、荒籠の拠点付近に宮を構えて荒顔に中央の情勢を探らせたためとする説。

これも上の説と同様で、20年も大和国内を諜報する必要性は薄いと言えますが、無益な戦で疲弊するより、勝ち目がない事を悟らせる戦術をとったとも理解できますね。

③軍事行動がとりやすい水陸の交通が集中する要衝の地「男山」を抑えたかったためとする説。

これは荒籠の諜報能力も活用できるという効果も合わせ持ちます。

実は、この場所、九州太宰府への大道「山陽道」が通っているし、淀川経由で瀬戸内海にも出やすい。遡って琵琶湖に出ることも。

各方面に対して、軍事行動がとりやすい立地なんです。

残虐な武烈天皇の政治によって国内には混乱が生じていたでしょう。また、朝鮮半島の情勢も不安定ですし、九州では反乱が起こったりしますから、大和に入るより、ここの方が好都合だったんだろうと思います。

継体天皇は即位の時点から各方面の秩序の回復を考えて葛葉宮を拠点としたのならば、なかなか有能な天皇ではないかと思います。

 

本文に戻る

スポンサーリンク