皇后を迎える
三月一日詔して、
「天神地祇を祀るには、神主がなくてはならず、宇宙(天下)を治めるには君主がなくてはならない。天は人民を生み、元首を打ち立てて助け養うように司り、その生を全うさせる。
大連は朕に子のないことを心配し、国家のために真心をもって、代々にわたって忠誠を尽している。どうして朕の世のためだけといえようか。
礼儀を整えて手白香皇女をお迎えするのじゃ」
五日、手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを教え、遂に一人の男子をお生みになりました。
これが 天国排開広庭尊(欽明天皇)となるお方です。この嫡子(嫡妻の子)はまだ幼かったので、二人の兄が政を治められた後に、天下を治められました。「14」
二人の兄とは、広国排武金日尊(安閑天皇)と武小広国押盾尊(宣化天皇)です。以下の文に見えます。
原 文
三月庚申朔、詔曰「神祗不可乏主、宇宙不可無君。天生黎庶、樹以元首、使司助養、令全性命。大連、憂朕無息、被誠款以國家、世々盡忠、豈唯朕日歟。宜備禮儀奉迎手白香皇女。」甲子、立皇后手白香皇女、修教于內、遂生一男、是爲天國排開廣庭尊。開、此云波羅企。是嫡子而幼年、於二兄治後、有其天下。二兄者、廣國排武金日尊與武小廣國押盾尊也、見下文。 |
男は農耕、女は養蚕
九日、詔して、
「朕が聞くところによると、男が耕作しないと、天下はそのために飢えることがあり、女が紡がないと、天下は寒さに凍えることがある。
だから帝王は自ら耕して農業を勧め、皇妃は自ら養蚕をして、桑の葉やりに勉める。ましてや、百官から万人に至るまで、農業や養蚕を怠っては、富み栄えることなどない。役人たちは私の思うところを天下に発して布告せよ」
と言われました。
原 文
戊辰、詔曰
「朕聞、土有當年而不耕者則天下或受其飢矣、女有當年而不績者天下或受其寒矣、故、帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。況厥百寮曁于萬族、廢棄農績而至殷富者乎。有司、普告天下令識朕懷。」 |
八人の妃と皇子女たち
十四日、八人の妃を召し入れられました。「15」
八人の妃の召し入れには後先 がありましたが、十四日の日に召し入れたとするのは、即位をされ、良い日を選んで、初めて後宮を定められたのでここに記録しました。(他も皆これに倣う)
元からの妃の 尾張連草香の娘を目子媛。「16」、またの名を色部とおっしゃます。は、二人の子をお生みになり、 皆、天下を治められました。
- その第一が 勾大兄皇子 で、これが広国排武金日尊(安閑天皇)です。
- 二番目が 桧隈高田皇子 で、これが武小広国排盾尊(宣化天皇)です。
次の妃で 三尾角折君 の妹は 稚子媛 とおっしゃり、
- 大郎皇子と
- 出雲皇女を
お生みになりました。
次は、坂田大跨王の娘で広媛とおっしゃり、三人の女子を生み、
- 姉を神前皇女、
- 中を茨田皇女、
- 末娘を馬来田皇女
とおっしゃいます。
次に、息長真手王の娘の 麻績娘子 は、
- 竞角皇女をお生みになりました。
この皇女は伊勢皇大神宮の斎宮をなさいました。
次に茨田連小望の娘 あるいは妹 の関媛は、三人の女をお生みになりました。
- 姉を茨田大郎皇女、
- 中を白坂活日姫皇女、
- 末娘を小野稚郎皇女、亦の名を長石姫
とおっしゃいます。
次に、三尾君堅械の娘の 倭媛 は、二男二女をお生みになりました。
- その一人を大娘子皇女、
- 二番目を椀子皇子( 三国公の先祖です。)
- 三番目を耳皇子といい、
- 四番目を赤姫皇女
とおっしゃいます。
次に、和珥臣河内の娘の荑媛といい、一男二女をお生みになりました。
- その第一を稚綾姫皇女といい、
- 次を円娘皇女といい、
- 三番目を厚皇子という。
次に、根王の娘の広媛は、二男をお生みになりました。
- 長子を兎皇子(酒人公の先祖です)
- 弟を中皇子(坂田公の先祖です)
とおっしゃいます。
この年、太歳丁亥。
原 文
癸酉、納八妃。納八妃、雖有先後而此曰癸酉納者、據卽天位、占擇良日初拜後宮、爲文。他皆效此。
元妃、尾張連草香女曰目子媛 更名色部、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄皇子是爲廣國排武金日尊、其二曰檜隈高田皇子是爲武小廣國排盾尊。 次妃、三尾角折君妹曰稚子媛、生大郎皇子與出雲皇女。 次、坂田大跨王女曰廣媛、生三女、長曰神前皇女、仲曰茨田皇女、少曰馬來田皇女。 次、息長眞手王女曰麻績娘子、生荳角皇女 荳角、此云娑佐礙、是侍伊勢大神祠。 次、茨田連小望女 或曰妹 曰關媛、生三女、長曰茨田大娘皇女、仲曰白坂活日姬皇女、少曰小野稚郎皇女 更名長石姬 。 次、三尾君堅楲女曰倭媛、生二男二女、其一曰大娘子皇女、其二曰椀子皇子、是三國公之先也、其三曰耳皇子、其四曰赤姬皇女。 次、和珥臣河內女曰荑媛、生一男二女、其一曰稚綾姬皇女、其二曰圓娘皇女、其三曰厚皇子。 次、根王女曰廣媛、生二男、長曰兔皇子、是酒人公之先也、少曰中皇子、是坂田公之先也。 是年也、太歲丁亥。 |
ひとことメモ
欽明天皇・安閑天皇・宣化天皇
皇后の生んだ子の欽明天皇はまだ幼いので、安閑天皇と宣化天皇が中継ぎしました。
中継ぎだからとは言え、天皇に即位したら天皇です。自分の子を天皇にしたいと思うでしょう。結果として中継ぎのように見えますが、もしかしたらそんなことを画策したかも。。。というか、それが自然ですよね。
それをさせなかったのが、継体天皇の皇后である手白香皇女だったのではないかと思います。
妹の春日山田皇女を安閑天皇の皇后に、同母妹の橘仲皇女を宣化天皇の皇后にして、欽明天皇の立場を守ったんじゃないかと。
継体天皇は老齢ですので、実権は手白香皇女が握っていたような気がします。
后妃の出自
継体天皇の妃の出自はとても特徴的です。近江・越前の豪族からの妃が多いのです。
古事記で記載されている順番に並べ替えますと、
- 稚子媛 三尾角折君の女・・・越前国
- 目子媛 尾張連草香の女・・・尾張国・美濃国
- 手白香皇女 仁賢天皇の皇女で母方が春日和珥氏・・・大和国北部から木津川・宇治川沿岸
- 麻績娘子 息長真手王の女・・・近江国湖東
- 広媛 坂田大跨王の女・・・近江国湖東
- (関媛 茨田連小望の女あるいは妹・・・河内国北部)
- 倭媛 三尾君堅楲の女・・・越前国北部
- 荑媛 和珥臣河内の女・・・大和国北部、山城国南部、近江国湖西
- (広媛 根王の女・・・?酒人公・坂田君の祖なので近江国か?)
(6と9は古事記に見えず。9は5との重複か?)
尾張連草香の娘の目子媛
古事記で列記されている順番から塑像するに、継体天皇が越前にいる頃の2番目の妃でしょう。中継ぎとはいえ、二人の天皇の母となりました。
子供たちの中でも年長の部類だったということもありましょうが、豪族たちの思惑も絡む皇位継承ですから、尾張連の実力に依るところが大きかったんじゃないかと思います。
名古屋市熱田区、熱田神宮からほど近いところに「断夫山古墳」という前方後円墳があります。長さ150mで愛知県最大の古墳です。
目子媛、あるいは尾張連草香の墳墓ではないかと言われているそうですよ。
継体天皇の勢力範囲
突然に天皇となった継体ですが、后妃の出身地がすべて協力者となったと考えて、そこに、継体天皇の両親の出身地
- 父・・・近江国高島郡
- 母・・・越前国三国郡
- 祖母・・・加賀国江沼郡
- 三尾氏と同祖・・・能登国羽咋郡
などを加えると、、、
能登・加賀・越前・近江・美濃・尾張・山城南部・大和北部・河内北部という広大な勢力範囲が浮かび上がってきます。
この勢力をもってすれば、多少の抵抗勢力が大和国内にあったとしても、風に靡くが如くだと思います。
当面の敵国は、雄略天皇崩御後に反乱を起こした吉備国だったのだと考えます。
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