日本書紀|第二十六代 継体天皇⑤|筒城宮へ遷都する

 

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武烈天皇の埋葬と、筒城宮への遷宮

継体2年 戊子つちのえのね 508年

二年冬十月三日、武烈天皇を傍丘磐杯丘陵かたおかのいわつきのおかのみささぎ「17」に埋葬申し上げました。

十二月に、南の海の中の 耽羅人たんらびと「19」が、初めて百済国くだらこくに使者を送りました。

 原 文

二年冬十月辛亥朔癸丑、葬小泊瀬稚鷦鷯天皇于傍丘磐杯丘陵。十二月、南海中耽羅人、初通百濟國。

任那の百済難民を本国に送還

継体3年 己丑つちのとのうし 509年

三年春二月、使者を百済くだらに遣わして、

百済本記には、「久羅麻致支弥くらまちきみが日本から来た」とありますが、詳細はわかりません。

任那みまな日本縣邑やまとのあがたむらに住む百済の民のうち、逃げてきて戸籍のなくなった者の三世四世までを調べて、百済くだらに送り返し、戸籍に登録しました。

 原 文

三年春二月、遣使于百濟。百濟本記云「久羅麻致支彌、從日本來。」未詳也。括出在任那日本縣邑百濟百姓浮逃絶貫三四世者、並遷百濟附貫也。

筒城宮へ遷宮

継体5年 辛卯かのとのう 511年

五年冬十月、都を山城やましろ筒城つつき「18」に遷されました。

 原 文

五年冬十月、遷都山背筒城。

 

ひとことメモ

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傍丘磐杯丘陵かたおかのいわつきのおかのみささぎ

武烈天皇陵「傍丘磐杯丘陵」は、奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎに治定されています。

古墳の形式は山形。山形?実は、古墳として造営されたものではなく、単なる自然丘だという見解が一般的だとか。

 

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耽羅

耽羅たんらは、今の済州島にあった王国です。

三国史によれば、476年に百済に朝貢、498年には百済の属国となったようです。日本書紀のいう508年とは少しずれているようですね。

660年、唐と新羅の連合軍により百済が消滅してからは、新羅の属国となりつつも、唐の侵攻を恐れて日本にも朝貢を繰り返していたようです。

935年にはその新羅も滅亡。耽羅たんら国は、高麗に服属することになります。しかし高麗は済州島に耽羅たんら郡を設置しました。これをもって耽羅たんら国の歴史が途切れることとなります。

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筒城宮つつきのみや

京都府京田辺市多々羅都谷に、同志社大学京田辺キャンパスがあるのですが、その正門の横の丘に筒城宮跡の石碑が立ってます。

ここに宮があった証拠や伝承は無いらしいのですが、都谷という地名からここを伝承地とした人々が立てたそうですよ。

では何故、樟葉宮~筒城宮に遷都したのでしょうか。

樟葉宮が木津川・宇治川・桂川が合流して淀川となって流れ出す地点でした。筒城宮は、そこから木津川を遡った場所にあります。より大和に近い立地と言えます。さらに多田羅という地名から、製鉄場があったかも知れません。

そんなことから、大和を牽制しなければならない事態が起こったために、ここに遷宮したではないかというのが私の考えです。

ちなみに、仁徳天皇の皇后である磐之媛命が、仁徳天皇の浮気に怒って移り住んだのも筒城宮でした。

磐之媛命の筒城宮に関しては、浮気なんかじゃなく、磐之媛命は山城・近江の豪族の動きを抑えるためにこの地に宮を営んで移り住んだのでは?という説もあります。

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