日本書紀|第二十六代 継体天皇⑦|己汶と帯沙をめぐる百済と大伽耶の争い

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己汶と帯沙をめぐる争い

継体7年 癸巳みずのとのみ 513年

七年夏六月、百済くだら姐弥文貴さみもんくい将軍と州利即爾つりそに将軍を遣わして、穂積臣押山ほづみのおみおしやま 百濟本記云、委意斯移麻岐彌 に副えて、五経博士ごきょうはくし段楊爾だんようにを献上しました。

別に上奏して、

伴跛国はへのくには、私の国の己汶こもんの土地を略奪しました。伏して願わくば、天恩により、元の国に返還するよう判決して下さい「23」

と言いました。

秋八月二十六日、百済くだらの太子である淳陀じゅんだが亡くなりました。

 原 文

七年夏六月、百濟遣姐彌文貴將軍・洲利卽爾將軍、副穗積臣押山 百濟本記云、委意斯移麻岐彌 貢五經博士段楊爾、別奏云「伴跛國、略奪臣國己汶之地。伏願、天恩判還本屬。」

秋八月癸未朔戊申、百濟太子淳陀、薨。

勾大兄皇子まがりのおおけのみこと、春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ

九月、勾大兄皇子まがりのおおけのみこ(安閑天皇)は、春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ「24」を迎えられました。

月の夜に清らかに語り合われ、知らぬまに夜が明けました。

歌を作ろうとする雅な心が、たちまち形となって言葉に現われ、口ずさまれました。

やしまくに つままきかねて はるひの かすがのくにに くはしめを ありとききて よろしめを ありとききて まきさく ひのいたとを おしひらき われいりまし あととり つまどりして まくらとり つまどりして いもがてを われにまかしめ わがてをば いもにまかしめ まさきづら たたきあざはり ししくしろ うまいねしとに にはつとり かけはなくなり のつとり きぎしはとよむ はしけくも いまだいはずて あけにけりわぎも

八州国 妻枕きかねて 春日の 春日の国に 妙し女を 有りと聞きて 宜し女を 有りと聞きて 真木割く 檜の板戸を 押し開き 我入り坐し あと取り 端取して 枕取り 端取して 妹が手を 我に纏かしめ 我が手をば 妹に纏かしめ 真柝葛 手抱き交はり ししくしろ 味寝寝し間に 庭つ鳥 鶏は鳴くなり 野つ鳥 雉は響む 愛しけくも いまだ言はずて 明けにけり我妹

いろいろな国でも、妻を娶りかねたが、春日国に美しい女がいると聞いて、良い女がいると聞いて、立派な檜の板戸を押し開いて、私が入ると、足の方の衣の端を取り、上の方の衣の端を取り、妻の手を自分の体に巻きつかせ、自分の手を妻の体に巻きつかせて、真柝葛のように抱きしめあって交わり合って共寝している間に、鶏の鳴くのが聞こえ、雉が鳴き立てる。愛しいと、未だ言わない間に、夜が明けてしまったよ。ああ我が妻よ。

妃が答えて唄われて、

こもりくの はつせのかはゆ ながれくる たけの いくみだけよだけ もとへをば ことにつくり すゑへをば ふえにつくり ふきなす みもろがうへに のぼりたち わがみせば つのさはふ いはれのいけの みなしたふ うをも うへにでてなげく やすみしし わがおほきみの おばせる ささらのみおびの むすびたれ たれやしひとも うへにでてなげく

隠国の 泊瀬の川ゆ 流れ来る 竹の い組み竹よ竹 本辺をば 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹き鳴なす 御諸が上に 登り立ち 我が見せば つのさはふ 磐余の池の 水下經 魚も 上に出て嘆く やすみしし 我が大君の 帯ばせる 細紋の御帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て嘆く

泊瀬川を流れてくる竹は、組み竹で、良い竹です。その竹の根元の太い方で琴を作り、先の細い方で笛を作って、吹き鳴らす御諸山の上に登り立ち、私が眺めると、磐余の池の水中の 魚も上に顔出して、(しばしの別れを)嘆いています。我が大君が腰にお締めになっておられる更紗文様の帯の結び目が垂れ、誰もが皆、顔出して嘆いています

 原 文

九月、勾大兄皇子、親聘春日皇女。於是、月夜淸談、不覺天曉。斐然之藻、忽形於言、乃口唱曰、

野絁磨倶儞 都磨々祁哿泥底 播屢比能 哿須我能倶儞々 倶婆絁謎鳴 阿利等枳々底 與慮志謎鳴 阿利等枳々底 莽紀佐倶 避能伊陀圖鳴 飫斯毗羅枳 倭例以梨魔志 阿都圖唎 都麼怒唎絁底 魔倶囉圖唎 都麼怒唎絁底 伊慕我堤鳴 倭例儞魔柯斯毎 倭我堤嗚麼 伊慕儞魔柯絁毎 麼左棄逗囉 多々企阿藏播梨 矢泪矩矢慮 于魔伊禰矢度儞 儞播都等唎 柯稽播儺倶儺梨 奴都等利 枳蟻矢播等余武 婆絁稽矩謨 伊麻娜以幡孺底 阿開儞啓梨倭蟻慕

妃和唱曰、

莒母唎矩能 簸覩細能哿波庾 那峨例倶屢 駄開能 以矩美娜開余嚢開 謨等陛嗚麼 莒等儞都倶唎 須衞陛嗚麼 府曳儞都倶唎 府企儺須 美母慮我紆陪儞 能朋梨陀致 倭我彌細麼 都奴娑播符 以簸例能伊聞能 美那矢駄府 紆嗚謨 紆陪儞堤々那皚矩 野須美矢々 倭我於朋枳美能 於魔細屢 娑佐羅能美於寐能 武須彌陀例 駄例夜矢比等母 紆陪儞泥堤那皚矩

百済に己汶こもん滞沙たさを与える

冬十一月五日、朝廷に百済くだら姐弥文貴さみもんくい将軍が、新羅の汶得至もんとくち安羅あら辛己奚しんいけい賁巴委佐ほんはわさ伴跛はへ既殿奚こでんけい竹汶至ちくもんちらを引き連れてきました。恩勅めぐみが下され、己汶こもん滞沙たさ百済国くだらこくに与えられました。「26」

この月、伴跛国が戢支しょうきを遣わして、珍宝を献上し、己汶こもんの地を求めましたが、与えられませんでした。「27」

 原 文

冬十一月辛亥朔乙卯、於朝庭、引列百濟姐彌文貴將軍・斯羅汶得至・安羅辛已奚及賁巴委佐・伴跛既殿奚及竹汶至等、奉宣恩勅、以己汶・帶沙賜百濟國。

是月、伴跛國、遣戢支獻珍寶、乞己汶之地、而終不賜。

 

ひとことメモ

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伴跛国と己汶

伴跛国は、慶尚北道高霊にあった国。新羅にも百済にも併合されずに残った小国群の中心的存在で「大加耶」と呼ばれていました。

己汶は、百済国の南にある小国。(この当時は百済国の一部だったのでしょう。)元々は、伴跛国を盟主とした「大加耶連盟」に属していた国です。

ですから、この争いの発端は百済が己汶を奪い取ったことから始まるのです。そして奪い取られた大加耶連盟が奪い返した。

百済が己汶を奪い取るとう行動を実行したことと、倭国が百済に任那の4県を割譲したことと無関係ではないでしょう。

4県割譲の影響は、この後ますます大きくなっていきます。

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勾大兄皇子

勾大兄皇子まがりのおおえのみこは、継体天皇がまだ越前にいたころに娶った尾張連出身の目子媛との間に生まれた皇子です。

春日山田皇女

春日山田皇女は、仁賢天皇の皇女。

ですから、継体天皇の皇后である手白媛皇女の異母妹にあたります。異母とはいえ、それぞれの母親は同じ和珥氏の女性ですから、姉妹の血縁関係は濃いのです。

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己汶こもん滞沙たさ百済国くだらこく

前項にあった、「伴跛はへが百済国の己汶こもんを奪ったので、百済が元に戻すよう朝廷に願い出た」という記事の続きです。

百済国が、新羅国と伴跛国と安羅国の代表者を連れてやって来ました。関係各国が一同に会して、己汶の帰属先を決めようという動きです。

結果、己汶こもんに加えて滞沙たさ百済国くだらこくに与えられました。

元々は、伴跛国を盟主とした「大加耶連盟」に属していた国ですから、伴跛はへ国としては穏やかではないでしょう。

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伴跛はへの控訴

当然ながら、そのような判決は不当であるとして、伴跛はへ国も「己汶こもんを返せ」と言ってきました。がしかし判決は翻らず、朝廷はそれを認めませんでした。

これによって伴跛はへは国は、このあと日本・百済・新羅に対して攻撃を仕掛けてきます。

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任那とは

ちなみに、4県割譲の4県、己汶こもん滞沙たさ伴跛はへなどは、私達が小中学生の時に歴史で習った「任那」のエリアです。

私は、朝鮮半島には百済・新羅・任那という三つの国が存在したと記憶していましたが、どうやら

「任那は、百済と新羅から独立している小国の集合体をひっくるめた地域名で、そこは朝廷の影響下にはあるものの統治下にはなかった。」

ろ理解すべきですね。

ヤマト朝廷は、朝鮮半島南部に存在する小国群を緩く結びつける程度の盟主的な立場で、なおかつ、百済や新羅よりは国力がある国、という程度だったように思えます。

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