日本書紀|第二十六代 継体天皇⑧|勾大兄皇子を皇太子とする

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勾大兄皇子を皇太子とする

十二月八日、詔して、

「朕は皇位を受け、宗廟をお守りし、恐れ慎んで事にあたってきた。 このところ、天下は安静、国内は清らかで平和、豊年もしばしば訪れ、国は富んでいる。

いいぞ、麻呂古まろこよ。私の心をよく八方に示してくれた。盛んだぞ、勾大兄まがりのおおえよ。我が風で万国を照らしてくれた。

日本は平和で、その名は天下にとどろいておる。秋津洲あきつしまは光り輝き、その誉れは畿内では実に重い。宝とすべきは賢者であり、善行が最楽なのだ。

聖化によって遠くにまで栄え、大きな功業によって長く栄える。まことにお前の力にかかっているのだぞ。

春宮を継ぐがよい「30」。朕を助け仁を施し、私を補助してくれ」

と言われました。

 原 文

十二月辛巳朔戊子、詔曰

「朕承天緖、獲保宗廟、兢々業々。間者、天下安靜、海內淸平、屢致豐年、頻使饒國。懿哉、摩呂古、示朕心於八方。盛哉、勾大兄、光吾風於萬國。日本邕々、名擅天下、秋津赫々、譽重王畿。所寶惟賢、爲善最樂、聖化憑茲遠扇、玄功藉此長懸、寔汝之力。宜處春宮、助朕於仁、翼吾補闕。」

匝布さほ屯倉みやけ

継体8年 甲午きのえのうま 514

八年春一月、太子の妃、春日皇女かすがのひめみこは、朝なかなか起きて来られず、いつもと違っていました。

太子はおかしいと思って、部屋に人ってご覧になると、妃は床に伏して涙を流し、悶え苦しんで堪えられない様子でした。

太子は怪しんで、

「今朝ひどく泣くのは、何かの恨みでもあるのか?」

と尋ねました。

妃は、

「ほかのことではありません。私めが悲しむのは、空飛ぶ鳥も我が子を愛育するために、樹の上に巣を作ります。その愛情は深いものです。地に這う虫も我が子を守るために、土の中に穴を掘り、その守りは厚いものです。

まして人であるのに、どうして重いが無いといえまようか。跡嗣あとつぎのない恨みは、太子に集まります。私めの名も共に絶えてしまうでしょう」

と言われた。

太子は心を痛め、天皇に奏上された。

天皇はみことのりして、

「我が子、麻呂古まろこよ。お前の妃の言葉は深く理に適っている。どうしてつまらぬことだといって、慰めもないでよかろうか。匝布さほ屯倉みやけ「29」を与えて、妃の名を万世に表しなさい」

とおっしゃいました。

 原 文

八年春正月、太子妃春日皇女、晨朝晏出、有異於常。太子意疑、入殿而見、妃臥床涕泣、惋痛不能自勝。太子怪問曰「今旦涕泣、有何恨乎。」妃曰、「非餘事也。唯妾所悲者、飛天之鳥、爲愛養兒樹巓作樔、其愛深矣。伏地之蟲、爲護衞子土中作窟、其護厚焉。乃至於人、豈得无慮。無嗣之恨、方鍾太子、妾名隨絶。」

於是、太子感痛而奏天皇、詔曰「朕子麻呂古、汝妃之詞深稱於理。安得空爾無答慰乎。宜賜匝布屯倉表妃名於萬代。」

ひとことメモ

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春宮を継ぐ

春宮とは、皇太子が住む宮のことです。なので、この詔によって勾大兄皇子は皇太子の地位を約束されたということになります。

この時点(継体7年)で、継体天皇は65歳ぐらい。当時としてはかなりの老齢でしょう。この詔を見ても、ほとんどの政務は勾大兄皇子が代行してきたように見受けられます。

そういう意味で、勾大兄皇子は長い間「摂政」のような位置付けだったんだろうと思います。だから、皇位継承で揉めることもなかったのではないでしょうか。

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匝布さほ屯倉みやけ

匝布さほがどこか、明確にはわかっていません。

匝布さほ佐保さほとすれば、奈良市北東部、佐保川や佐保山があるあたりでしょう。匝布さほを「さふ」と読めば「曾布」。範囲は佐保を含んだもっと広い範囲となります。

いずれにしても、今の奈良市のどこかにあったんでしょう。

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