伴跪国の反抗
三月、伴跪は城を子呑と带沙に築いて、満奚と結び、のろし台、兵舎を置いて日本に備えました。
また、城を爾列比と麻須比に築いて、麻且奚と推封との連携をとりました。そして、士卒や兵器を集めて新羅に迫りました。「31」
子女を捕えて村を掠奪しました。賊の襲ったところは、残るものがあったとしても稀でした。
暴虐をほしいままにし、苦痛、損害、凌辱、多くの人を殺戮した様子は、詳しく載せられない程でした。
原 文
三月、伴跛、築城於子呑・帶沙而連滿奚、置烽候邸閣、以備日本。復、築城於爾列比・麻須比而絙麻且奚・推封、聚士卒兵器、以逼新羅。駈略子女、剥掠村邑、凶勢所加、罕有遺類、夫暴虐奢侈、惱害侵凌、誅殺尤多、不可詳載。 |
物部連が派遣されるも、、、
継体9年 乙未 515年
春二月四日、百済の使者である文貴将軍らが帰国を願い出ました。よって詔を出され、物部連 名はわからない を副えて帰国させました。百済本記には、物部至至連と伝わります。
この月に、沙都嶋「32」に至り、伝え聞くに、伴跛の人は恨みを抱き、よからぬことをたくらみ、強さをたのみとして残虐なことをほしいままにしているということでした。
そこで物部連は水軍五百を率いて、直ちに带沙江「33」に赴きました。文貴将軍は新羅から百済に去りました。
夏四月、物部連は带沙江に留まって六日、伴跛は軍を興して攻めてきました。衣類を剝ぎとり、持物を奪い、すべての帷幕を焼き尽くしました。
物部連らは怖れて逃げ、やっと命からがら汶慕羅「34」に泊まりました。汶慕羅は島の名前です。
原 文
九年春二月甲戌朔丁丑、百濟使者文貴將軍等、請罷。仍勅、副物部連 闕名 遣罷歸之。百濟本記云、物部至至連。是月、到于沙都嶋、傳聞、伴跛人懷恨銜毒・恃强縱虐。
故、物部連、率舟師五百、直詣帶沙江。文貴將軍、自新羅去。夏四月、物部連、於帶沙江停住六日、伴跛、興師往伐、逼脱衣裳、劫掠所齎、盡燒帷幕。物部連等、怖畏逃遁、僅存身命、泊汶慕羅。汶慕羅、嶋名也。 |
百済の罪滅ぼし
継体10年 丙申 516年
十年夏五月、百済は前部木品不麻甲背を遣わして、物部連らを己汶に迎えてねぎらい、引き連れて国に入りました。
群臣たちはそれぞれ着物や布帛、斧鉄などを出し、土地の産物に加え、朝廷に積み上げ、ねんごろに慰問しました。
賞祿もそれなりにありました。
秋九月、百済は州利即次将軍を遣わし、物部連に従わせて来朝し、己汶の地を賜わったことを感謝しました。
五経博士の漢高安茂を献上して、博士の段楊爾に替えたいと願い出たので、願いのとおり交代させました。
十四日、百済は約莫古将軍と、日本人の科野阿比多を遣わして、高麗の使者である安定らに付き添わせ来朝し、よしみを結びました。
継体12年 戊戌 518年
十二年春三月九日、都を山城国乙訓に遷しました。「35」
継体17年 癸卯 523年
十七年夏五月、百済の武寧王が亡くなりました
継体18年 甲辰 524年
十八年春一月、百済の太子である明が即位しました。
二十年秋九月十三日、都を遷して大和の磐余の玉穂「36」に置きました。ある本では七年と伝わります。
原 文
十年夏五月、百濟遣前部木刕不麻甲背、迎勞物部連等於己汶而引導入國。群臣各出衣裳・斧鐵・帛布、助加國物、積置朝庭。慰問慇懃、賞祿優節。
秋九月、百濟遺州利卽次將軍、副物部連來、謝賜己汶之地、別貢五經博士漢高安茂、請代博士段楊爾。依請代之。戊寅、百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多、副高麗使安定等、來朝結好。 十二年春三月丙辰朔甲子、遷都弟國。 十七年夏五月、百濟國王武寧薨。十八年春正月、百濟太子明卽位。 廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗。一本云、七年也。 |
ひとことメモ
伴跪国の反抗
伴跪国は、大伽耶連合の盟主的存在。大伽耶連合と百済との境に西部防衛戦を布き、新羅との境に東南部防衛線を布きました。
己汶、滞沙の一件は、新羅には関係なさそうに思えますが、新羅は新羅で百済と伴跪との争いに乗じて、大伽耶連合地域に進攻してきたのでしょう。
日本も関係ないといえばないと言えますが百済の策略に巻き込まれた格好です。逆恨みを買った感じですね。
沙都嶋
沙都嶋は巨済島に比定されています。
百済の将軍は、巨済島からいち早く新羅に入って百済に帰国しました。援軍を指し向けるためでしょうか。でなければ、朝廷軍を見捨てて逃げたということになりますが、、、
ちなみに、百済の将軍が新羅を経由して帰国したということは、この二国、この当時はそれほど敵対関係にあったわけではなさそうですね。利害関係が一致していたのでしょう。
带沙江
带沙江は蟾津江の河口に比定されています。
我らが物部連は、500隻の軍艦があれば勝てるだろうと思い带沙江に入港して上陸。しかし恨みを持って戦う相手は意外にも手ごわく、結局は畏れをなして這う這うの体で退散しました。
伴跛の軍は、大国に挟まれていたため戦馴れしていたのでしょう。
汶慕羅
汶慕羅島は不明です。
おそらくは、帯沙江の沖合の島か、それよりも西側の島だと思います。
山城国乙訓に遷宮
山城国の乙訓宮は、以下のことから京都府長岡京市今里あたりにあったと思われます。
- 古事記伝に「井乃内村、今里村の辺なり」と記されている
- 井ノ内の長岡第十小学校の建設時の埋蔵文化財発掘調査で、「弟国」と記された奈良時代の墨書土器の一部が出土している
- 市北部の古墳群は、継体天皇即位後に一気に出現している
筒城宮から乙訓宮に遷都した理由は何でしょうか。
乙訓宮の立地は、
- 丹波国から大和国に至るルート上にある
- 巨椋池の東湖畔で、宇治川、木津川、桂川のすべてを目視することができる
- だから、巨椋池、宇治川、琵琶湖のルートを効果的に使うことができる
どうも、出身地である越前や近江との連携を強化する狙いがありそうな立地のように思えます。なにやら大戦の臭いがしませんか?
磐余の玉穂宮
磐余の玉穂の宮は、桜井市池ノ内あたりと言われてますが、明確な場所は明らかではありません。
磐余の邑は、神功皇后、履中天皇、清寧天皇、継体天皇、敏達天皇、用明天皇、舒明天皇が宮を置いた、ヤマト王権にとって聖なる地です。
当面の諸国の秩序も取り戻し、大和国内の抵抗勢力も味方につけることができたため磐余の地に遷都したのでしょう。
ただ、諸国の秩序を取り戻すことに関する記述も、大和国内に抵抗勢力があったという記述もないので想像でしかないですが、、、
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