日本書紀|第二十二代 顕宗天皇①|億計王と弘計王の逃亡

2021年10月25日

弘計天皇 -おけのすめらみこと-
第二十三代  顕宗天皇 -けんぞうてんのう-

 

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顕宗天皇のひととなり

弘計天皇をけのすめらみこと(顕宗天皇)亦の名を来目稚子くめのわくごとおしゃいます は、大兄去来穂別天皇おほえのいざほわけのすめらみこと(履中天皇)の孫で、市邊押磐皇子いちのへのおしはのみこの子です。

母は荑媛はえひめといいます。

譜第かばねついでのふみには、

市邊押磐皇子いちのへのおしはのみこは、蟻臣ありのおみの娘の荑媛はえひめを娶り、三男二女を儲けた。

一子を 居夏姫 いなつひめといい、
二子を 億計王 おけのみこ、亦の名を嶋稚子しまのわくご、亦の名を大石尊おおいしのみことといいます。
三子を 弘計王おけのみこ、亦の名を 来目稚子くめのわくご という。
四子を 飯豐女王いひどよのひめみこ 「1」、亦の名を 忍海部女王おしぬみべのひめみこ という
五子を  橘王たちばなのみこ  という

と書かれています。

ある本には、

飯豐女王いひどよのひめみこ を 億計王 おけのみこ の上に記し、蟻臣を葦田宿禰あしたのすくね の子」

と書かれています。

さて、天皇(弘計王をけのみこ)は長い間辺境の地で暮らされていたので、百姓の苦労をよく知っていました。理不尽に虐げられている人を見るにつけ、まるで自分の体が周濠に埋められるように思えました。

だからこそ、徳を布き恵を施して、政令をうまく行い、貧困者に恵みを与え、寡婦を養い、天下万民は親しみを持って従いました。

 原 文

弘計天皇更名來目稚子、大兄去來穗別天皇孫也、市邊押磐皇子子也。母、曰荑媛。荑、此云波曳。譜第曰「市邊押磐皇子、娶蟻臣女荑媛、遂生三男二女、其一曰居夏姬、其二曰億計王、更名嶋稚子、更名大石尊、其三曰弘計王、更名來目稚子、其四曰飯豐女王、亦名忍海部女王、其五曰橘王。」一本、以飯豐女王、列敘於億計王之上。蟻臣者、葦田宿禰子也。

天皇、久居邊裔、悉知百姓憂苦、恆見枉屈、若納四體溝隍、布德施惠、政令流行、䘏貧養孀、天下親附。

 

億計王と弘計王の逃亡

安康三年

三年十月に、天皇(弘計王をけのみこ)の父の市邊押磐皇子と帳内とねり佐伯部仲子さへきべのなかちこ とは、蚊屋野かやので雄略天皇に殺され、同じ穴に埋められました。

天皇(弘計王をけのみこ)と億計王は、父が射殺されたことを聞き、恐れて皆で逃亡して身を隠されました。

帳内(とねり)の 日下部連使主くさかべのむらじ おみ  「1」使主は日下部連の名です。使主は於瀰(おみ)という 吾田彦あたひこ 吾田彦は使主の子である とが、こっそりと天皇(弘計王をけのみこ)と億計王を丹波國の余社郡「2」にお連れして、難を逃れたのです。

使主おみは名を 曰疾来たとく と改め、見つかって誅殺されるのを恐れて、更に奥へ隠れて播磨の 縮見山しじみのやま の石室「3」に隠れ入り、首をくくって死にました。

天皇(弘計王をけのみこ)は、使主の居場所がわからなくなったのですが、兄の億計王を連れて播磨國の赤石郡に向かい、一緒に名を代えて 丹波小子たにはのわらわ  と名乗り、縮見屯倉首しじみのみやけのおびと に仕えました。縮見屯倉首は忍海部造細目おしぬべのみやつこ ほそめ です

吾田彦あたひこは、ずっと二人から離れず、かたくなに臣としての礼を守りました。

 原 文

穴穗天皇三年十月、天皇父市邊押磐皇子及帳內佐伯部仲子、於蚊屋野、爲大泊瀬天皇見殺、因埋同穴。於是、天皇與億計王、聞父見射、恐懼皆逃亡自匿。

帳內日下部連使主使主、日下部連之名也。使主、此云於瀰 與吾田彥吾田彥、使主之子也、竊奉天皇與億計王、避難於丹波國余社郡。使主、遂改名字曰田疾來、尚恐見誅、從茲遁入播磨縮見山石室而自經死。

天皇、尚不識使主所之、勸兄億計王、向播磨國赤石郡、倶改字曰丹波小子、就仕於縮見屯倉首。縮見屯倉首、忍海部造細目也。吾田彥、至此不離、固執臣禮。

ひとことメモ

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飯豊女王

顕宗天皇②の記事で、 飯豊皇女いいどよのひめみこの系譜には2つの説があると書きました。

  • 古事記と日本書記(履中紀)では、父が履中天皇で、母が黒媛(葛城襲津彦の子)。
  • 日本書紀(顕宗紀)では、父が市邊押磐皇子いちのへのおしはのみこで、母が荑媛(葛城蟻臣の子)。

ここで記述されているのが、後者の説となります。

飯豊女王は2人いたと解釈するのがよさそうです。

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日下部連

但馬国造に日下部君、甲斐国造の日下部直、河内の日下部連、穴戸の草壁宿祢。皆その祖を彦坐王としています。

彦坐王の子「丹波道主命」は崇神天皇の御代に四道将軍の一人として丹波国平定に派遣された人です。

河内の日下部連と丹波とは古くからの繋がりがあり、その縁を頼って丹波国に逃げたのでしょうかね。

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丹波国の余社郡

兄弟は、まずは丹波国の余社郡に身を隠しました。

丹波国の余社郡とは、与謝郡のことです。式内社の多い地域で、その筆頭は、名神大社にして丹後国一宮の籠神社です。

丹波?丹後?

丹後国は713年に丹波国から分国しました。なので顕宗天皇の世では丹波国だったのです。

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縮見山しじみのやま の石室いはや

兄弟を案内してきた使主おみは、さらに奥へ逃げて、播磨の「縮見山しじみのやま の石室いはや」に連れてきたとあります。

縮見山しじみのやま の石室いはやは、兵庫県三木市志染しじみ町にある岩窟に比定されています。

播磨国風土記の美嚢郡みなぎのこおり志染里しじみのさとの条にも同じような記載がありました。

父・市辺天皇命いちのべのすめらみこと が近江国の摧綿野かやので殺されたとき、日下部連意美くさかべのむらじおみを引き連れて逃げてきて、この村の石室に隠れた。そうした後、意美はこの逃亡が重い罪であると悟り、乗ってきた馬たちの脚の腱を切り断って追い放った。また、持っていた物や馬の鞍などをすべて焼き捨てた。そして首をくくって死んだ。

美嚢郡みなぎのこおりは、後世になって赤石郡から分離独立しましたから、当時は赤石です。

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