日本書紀|第二十三代 顕宗天皇②|縮見屯倉首・室寿の歌

2021年10月25日

弘計天皇 -おけのすめらみこと-
第二十三代  顕宗天皇 -けんぞうてんのう-

続き、、、

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縮見屯倉首しじみのみやけのおびとの新築祝い

清寧二年

十一月に、播磨國司の山部連の先祖の伊豫来目部小楯いよのくめべのをだて [1]は、赤石郡で新嘗にいなへ の供物を奉りました。

ある話では、郡縣を巡回して、田租を徴収していた、とも伝わります。

その時たまたま  縮見屯倉首しじみのみやけのおびと  [2]の新築祝いにでくわし、その宴会は次の日の昼まで続きました。

その時、天皇(弘計王をけのみこ)は、兄の億計王に

「ここに難を避けて、もう何年も過ぎました。今宵こそ名を名乗って貴い身分を知らしめましょう、」

と言いましたが、億計王は憐み、そして嘆げいて

「名を名乗って害を被るのと、身の安全を確保するのと、どちらが良いのか」

と言いました。しかし、天皇(弘計王をけのみこ)は、

「我々は、履中天皇の孫ですよ。なのに、人に仕え、牛馬を飼育している。名を明かして害を被るのも同じことではありませんか」

とおっしゃり、億計王と抱き合って泣き、抑えることができませんでした。

億計王は、

「であれば、弟をおいて他に、我らの名を明かして君臣の節義を高らかに顕すことができる者はいない」

と言いました。

天皇(弘計王をけのみこ)は断って

「私は才がありません。徳を示すようなことはできません」

とおっしゃいました。

億計王は、

「弟は賢く徳があり、他に優れた者なのいないではないか!」

と言いました。

このように譲り合われること再三にわたり [3]ついに、天皇(弘計王をけのみこ)が自ら述ベられることを承諾し、共に部屋の外に行き、下座に座られました。

 原 文

白髮天皇二年冬十一月。播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯、於赤石郡、親辨新嘗供物一云、巡行郡縣、收斂田租也、適會縮見屯倉首、縱賞新室、以夜繼晝。

爾乃、天皇謂兄億計王曰「避亂於斯、年踰數紀。顯名著貴、方屬今宵。」億計王惻然歎曰「其自噵揚見害、孰與全身兔厄也歟。」天皇曰「吾是去來穗別天皇之孫、而困事於人飼牧牛馬。豈若顯名被害也歟。」遂與億計王相抱涕泣、不能自禁。億計王曰「然則、非弟誰能激揚大節可以顯著。」天皇固辭曰「僕不才、豈敢宣揚德業。」億計王曰「弟英才賢德、爰無以過。」

如是相讓、再三、而果使天皇自許稱述、倶就室外、居乎下風。

 

室寿の歌

屯倉首みやけのおびとは、かまどのそばに座るように命じ、左右の明かりを灯させました。

夜が更けて、宴たけなわとなり、次第に歌舞いが途切れがちになりました。

屯倉首みやけのおびと が小楯おだて に、

「私が明かりを灯した者を見たところ、人を貴び自分を賤しくし、人を優先し自分を後回しにし、恭敬にして節に従い、退いて譲ることで礼を明らかにしている。まるで君子のようでしょう? [4]

と言いました。

小楯は自ら琴を弾き、火を灯した者に

「立って舞うがよい」

と命じました。

兄弟は譲り合って、なかなか舞い始めなかった。

小楯が怒って

「何をしておる遅いぞ、早く舞わぬか」

と言いました。

億計王が立って舞い終わると、天皇(弘計王をけのみこ)が次に立って、衣服を整えて室寿むろほぎ 「5」の歌を詠いました。

 

築き立てる新居の綱、築き立てる柱は、この家長の御心の鎮なり。

取り挙げた棟梁は、この家長の御心の林なり。

取り置いた垂木は、この家長の御心の斉なり。

取り置いた えつり は、この家長の御心の平なり。

取り結んだ縄や葛は、この家長の寿命を堅なり。

取り葺いた茅は、この家長の富の余なり。

出雲田の新墾にいばり新墾にいばりの十握稲を、浅いかめんで造ったお酒を、おいしく飲むことかな、我が男子たちよ。

この山の傍で、牡鹿さおしかの角を捧げて、舞をすれば、この旨い酒は、餌香えかの市でも、買うことはできないものだ。

手を打つ音も爽やかに、打ち上げよう。

我が永久の友たちよ。

 原 文

屯倉首、命居竈傍、左右秉燭。夜深酒酣、次第儛訖、屯倉首語小楯曰「僕見此秉燭者、貴人而賤己、先人而後己、恭敬撙節、退讓以明禮。撙者、猶趍也、相從也、止也。可謂君子。」於是、小楯撫絃、命秉燭者曰「起儛。」於是兄弟、相讓久而不起、小楯嘖之曰「何爲太遲、速起儛之。」億計王起儛既了、天皇次起、自整衣帶、爲室壽曰、

築立稚室葛根、築立柱者、此家長御心之鎭也。取舉棟梁者、此家長御心之林也。取置椽橑者、此家長御心之齊也。取置蘆萑者、此家長御心之平也。蘆萑、此云哀都利。萑音之潤反。取結繩葛者、此家長御壽之堅也。取葺草葉者、此家長御富之餘也。出雲者新墾、新墾之十握稻、於淺甕釀酒、美飲喫哉。美飲喫哉、此云于魔羅儞烏野羅甫屢柯倭。吾子等。子者、男子之通稱也。脚日木此傍山、牡鹿之角牡鹿、此云左鳥子加。舉而吾儛者、旨酒餌香市不以直買、手掌憀亮手掌憀亮、此云陀那則舉謀耶羅々儞。拍上賜、吾常世等。

ひとことメモ

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伊豫来目部小楯いよのくめべのをだて

伊豫来目部小楯いよのくめべのをだては久味国造家の出身です。久味国は現在の愛媛県松山市東部から東温市、久万高原町あたりです。ですから「伊予」なんですね。

来目部は、久米部のことでしょう。軍事や宮廷の警衛を司った部民です。

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屯倉首みやけのおびと

屯倉首みやけのおびと は、屯倉の運営を任された長官です。屯倉は天皇直轄の田地です。

当然ながら朝廷とのやり取りは盛んに行われていたことでしょう。捕まれば殺されるという兄弟が、何故そんな危険とも思われる屯倉首の家に仕えたのでしょうか。

こちらも大いに違和感を感じますよね。

反雄略天皇派がいたのでしょうか。

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譲り合われること再三にわたり

このように、兄弟で譲り合うシーンは2代綏靖天皇紀にもありました。綏靖天皇も弟で、兄よりも勇敢だったから、兄が弟に皇位を譲ったのでした。

中国や朝鮮半島で浸透していた儒教は、上下の礼節に厳しいです。

弟が皇位につくにはそれなりの理由がないと理解されなかった。だから、これでもかと譲り合うシーンを盛り込んだ。

そんな気がします。

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まるで君子のようでしょう

兄弟を下男として使っている主人が、客人に「この兄弟の所作は君子のようだ」と言ってます。

普通は客人が「おたくの下男は、教育が行き届いていると見えて、まるで君子のような振舞いをしますな」と褒めるところだと思います。

大いに違和感を持ちます。

屯倉首が中央から来た役人にアピールしているような、、、

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室寿むろほぎ

室寿むろほぎとか新室寿にいむろほぎとも。新築の家や家主の永遠を祝福する言祝ことほぎで、建築儀礼の一つです。

我々一般庶民の神事としては、地鎮祭、上棟式などが建築儀礼として残ってます。

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