日本書紀|第二十三代 顕宗天皇③|兄弟ついに身分を明かす・飯豐青尊の執政

2021年10月25日

弘計天皇 -おけのすめらみこと-
第二十三代  顕宗天皇 -けんぞうてんのう-

続き、、、

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遂に身分を明らかにする!

室寿の歌が終わると、琴の音に合わせて、歌って詠まれました。

いなむしろ かはそひやなぎ みづゆけば なびきおきたち そのねはうせず
稲蓆 川沿ひ柳 水行けば 靡き起き立ち その根は失せず「1」

川に沿って立っている柳の木は、水の流れによって、靡いたり、立ったりするが、その根はなくならない

小楯は、

「良い歌だ。もう一首聞かせてもらいたい」

と言いました。

そこで、天皇は、殊儛たつつのまひ を舞われました。殊儛は、いにしへ に之を立出儛たつつのまひ という。立出は、此は陀豆々(たつつ)といふ。

そして、叫んで謡われました。

倭は彼彼茅原そそのちはら淺茅原あさちはら弟日僕おとひやつこらま。

倭はそよそよと茅原「2」の音を立てる国である。私はその浅茅原の弟王であるぞ、我は!!

これを聞いた小楯は、とても奇妙に思いました。更に謡わせますと、天皇(弘計王をけのみこ)は、また、叫んで謡われました。

石上いそのかみの、布留ふるの神杉の、根元を伐り、枝を切り払って造った、

市辺宮「3」で天下をお治めになった、押磐尊おしわのみこと「4」の御子であるぞ、我は!!

小楯は、大変驚いて席を離れ、畏れ入って天皇(弘計王をけのみこ)を再拝し、足りないものを謹んでお聞きし、一族を率いて謹んでお仕えしました。そして、郡民を悉く動員して宮を造らせ、日を置かずに仮の宮にお住まい頂きました。

また、京都(みやこ)に参上して、二王をお迎えするように申し上げました。

清寧天皇は、

「自分には子がいないので、跡継ぎにしよう」

とおっしゃられ、大変お慶びになられました。

そして、大臣・大連とに相談され、播磨國司の来目部小楯くめべのをだて にしるし を持たせて、側近の舎人と共に赤石に行かせ、お迎えさせました。

 原 文

壽畢、乃赴節歌曰、

伊儺武斯蘆 呵簸泝比野儺擬 寐逗喩凱麼 儺弭企於巳陀智 曾能泥播宇世儒

小楯、謂之曰「可怜、願復聞之。」天皇、遂作殊儛。殊儛、古謂之立出儛。立出、此云陀豆々。儛狀者、乍起乍居而儛之。誥之曰、

倭者彼々茅原 淺茅原弟日 僕是也

小楯由是、深奇異焉。更使唱之、天皇誥之曰、

石上振之神榲 榲、此云須擬。  伐本截末 伐本截末、此云謨登岐利須衞於茲婆羅比。於市邊宮治天下 天萬國萬押磐尊御裔 僕是也

小楯、大驚離席、悵然再拜。承事供給、率屬欽伏。於是、悉發郡民造宮、不日權奉安置。乃詣京都求迎二王。白髮天皇、聞憙咨歎曰「朕無子也、可以爲嗣。」與大臣・大連定策禁中、仍使播磨國司來目部小楯、持節將左右舍人、至赤石奉迎。

 

飯豊皇女の執政

清寧三年

正月  天皇(弘計王をけのみこ)は、兄の億計王に従って、摂津国に到着され、臣・連に御印を持たせて、王が乗る青蓋車あをきぬがさのくるま 「5」で宮中に入られました。

四月  億計王が皇太子となられ、天皇(弘計王をけのみこ)は皇子となられました。

 

清寧五年

春正月に清寧天皇が崩御されました。

この月、皇太子の億計王おけのみこと天皇(弘計王をけのみこ)が位を譲り合われたので、長らく位につかれませんでした「6」

このため、天皇の姉の飯豊青皇女いいどよのあおのひめみこが、忍海の角刺宮おしぬみのつのさしのみや「7」で、臨時に朝廷の政を行い、自ら忍海飯豊青尊おしぬみいいどよのあおのみことと名乗られました。

当時の歌人が詠んだ歌

やまとへに みがほしものは おしぬみの このたかきなる つのさしのみや

倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮

倭の周辺で見たいものといえば、忍海の高台に造られた 角刺の宮だよ

十一月 飯豐青尊が崩御されました。葛城埴口丘陵かづらきのはにくちのをかのみささぎ  「7」に葬り祀った。

 原 文

白髮天皇三年春正月。天皇、隨億計王、到攝津國、使臣連持節、以王靑蓋車、迎入宮中。夏四月、立億計王爲皇太子、立天皇爲皇子。

五年春正月、白髮天皇崩。是月、皇太子億計王、與天皇讓位、久而不處。由是、天皇姉飯豐靑皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豐靑尊。當世詞人歌曰、

野麻登陛儞 瀰我保指母能婆 於尸農瀰能 莒能陀哿紀儺屢 都奴娑之能瀰野

冬十一月、飯豐靑尊崩、葬葛城埴口丘陵。

ひとことメモ

kz-3-1

稲蓆 川沿ひ柳 水行けば 靡き起き立ち その根は失せず

柳の枝は川に流されることもあるが、その根は動かない。

これはまさに、兄弟の境遇を詠った歌と思われます。

そして、この歌から身分を明かす歌へと続きます。

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kz-3-2

茅原

茅原は文字通り「ちがやの茂った原」です。尖った葉が垂直に伸びることから草冠に矛と書くようになったとか。

その茎は油分を多くふくんでいて雨を弾く効果があるため、茅葺屋根の材料に使われました。

ちなみに、三輪山の西麓に茅原という地名がありますよ。

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市辺宮

市辺宮の場所は特定されていませんが、石上神宮の神杉で作った宮だとすると、石上神宮の近辺なんでしょう。

天理市石上町に石上市神社があります。現在の祭神は少彦名命ですが、かつては市辺押磐皇子を祀っていたという説があります。

だとすると、そのあたりに宮があったのかもしれませんね。

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kz-3-4

押磐尊

押磐尊とは、兄弟の父親である市辺押磐皇子です。

  • 尊という尊称は天皇に対する尊称であること
  • 市辺押磐皇子は安康天皇から皇位を継ぐべき皇子として指名されていた
  • 播磨風土記に市辺押磐天皇命と記載されていること

というようなことから、もしかしたら天皇に即位していたのかもという指摘もあります。

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kz-3-5

青蓋車あをきぬがさのくるま

青蓋車あをきぬがさのくるまは、中国で皇太子または皇子が乗用した、覆いが青色、車輪が朱色の車です。

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kz-3-6

長らく位につかれませんでした

皇位を譲り合って空位の期間が長くなったという話は、応神天皇崩御のあと、兄の仁徳天皇と異母弟の菟道稚郎子うじのわきいらつこが譲り合った時と同じです。

この時は、弟の菟道稚郎子うじのわきいらつこが自ら命を断つことで、兄に皇位を譲ったという結末でしたが、今回は、、

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忍海角刺宮・葛城埴口丘陵

奈良県葛城市の忍海に、角刺神社という神社があります。ここが忍海角刺宮跡の伝承地となっています。祭神はもちろん飯豊女王です。

角刺神社から北北西に800mの地点にある北花山大塚古墳が忍海飯豊青尊の陵に治定されています。

忍海飯豊青尊という称号、御陵の存在、政務を行った女王、、、やはり天皇です。

推古天皇が最古の女帝と言われていますが、もしかしたら飯豊女王が最古の女帝だったのかも知れません。

とはいえ、たとえ実質的には天皇だったとしても、みしるしの継承が行われていなければ天皇とは言い難いですかね、、、

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