弘計天皇 -おけのすめらみこと-
第二十三代 顕宗天皇 -けんぞうてんのう-
続き、、、
皇位の譲り合い
十二月 百官が集まり、そこで、皇太子である億計王が、天皇の 璽 を持って、天皇の 坐 に置き、そして再拜し、諸臣の座に降りて、
「この天子の位というものは、功のあった者が就くべきところである。貴き身分を明かして、ここに迎え入れられたのは、みな弟の考えである」
と申され、天下を天皇(弘計王)に讓られました。
天皇(弘計王)は、弟であることを理由に、あえて即位されませんでした。また、清寧天皇が先に兄を皇太子に立てたことを奉り、何度も固辞されて、
「太陽や月が昇っているのに篝火を消さない、その光りはなんとも無駄です。時雨が降ってるのに、なお田に水を注ぐ、無駄に疲れるだけです。
人の弟としての正しきは、兄に仕えて、兄が難を逃れられるように考え、徳を照らし紛争を解決して、表に立たないことです。もし表面に立つようなことがあれば、弟として恭敬の大義に背くことになりましょう。
私はそのようなことは我慢できません。兄が弟を愛し、弟が兄に従うのは、普遍の定めだと、古老からこのように聞いています。どうして私一人がこの道理を軽んじることが出ましょうや」
とおっしゃいました。
原 文
十二月百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐、再拜從諸臣之位曰「此天子之位、有功者可以處之。著貴蒙迎、皆弟之謀也。」以天下、讓天皇。天皇、顧讓以弟、莫敢卽位。又、奉白髮天皇先欲傳兄立皇太子、前後固辭曰「日月出矣而爝火不息、其於光也不亦難乎。時雨降矣而猶浸灌、不亦勞乎。所貴爲人弟者、奉兄・謀逃脱難・照德解紛而無處也。卽有處者非弟恭之義、弘計不忍處也。兄友・弟恭不易之典、聞諸古老、安自獨輕。」 |
弟が折れる
皇太子である億計は、
「清寧天皇は、私が兄であるという理由で、天下のことを先に私にさせようとなさったが、私はそれを恥ずかしいと思う。
思えば、大王よ、はじめに逃走のうまい手段を説明したとき、それを聞く者は皆、褒め讃えた。帝の孫であることを明らかにした時には、見る者は涙を流した。憂いていた百官たちは、天を共に頂く喜びを感じ、哀しんでいた人民は、大地を踏んで生きる恩を喜んだ。
これによって、よく四隅まで固めて、長く万代に栄えさせた。その功績は万物創造の神に並ぶほどで、清らかな考えは世を照らしている。遥か彼方に飛びぬけて偉大すぎて、讃えようがないほどだ。
だから、たとえ兄だからといって、先に位につくことができようか。功も無いのに立つと、必ず咎めや悔いが生ずるだろう。
天皇の位は、長く空けてはならぬと聞いている。 天命は辞退することなどできない!大王は国家を経営し、人民のための心を持ってくれ!」
と、話しているうちに腹が立ってきて涙を流されました。
このようなことで、天皇(弘計王)は、もう皇位に就かないわけにはいかない、兄の意思に逆らうべきではないと思われ、お聞き入れなさいました。それでも、高御座にはお立ちになりませんでした。
人々は、真実の譲り合う姿を褒め讃えて、
「素晴らしい。兄弟が和らいで、天下に徳が帰ってきた。家族が仲睦まじければ、民にも思いやりの心が生まれるであろう」
と言いました。
原 文
皇太子億計曰「白髮天皇、以吾兄之故、舉天下之事而先屬我、我其羞之。惟大王、首建利遁、聞之者歎息。彰顯帝孫、見之者殞涕、憫々搢紳、忻荷戴天之慶、哀々黔首、悅逢履地之恩。是以、克固四維、永隆萬葉、功隣造物、淸猷映世、超哉、邈矣、粤無得而稱。雖是曰兄、豈先處乎、非功而據、咎悔必至。吾聞、天皇不可以久曠、天命不可以謙拒。大王、以社稷爲計、百姓爲心。」發言慷慨、至于流涕。天皇於是、知終不處、不逆兄意、乃聽。而不卽御坐。世、嘉其能以實讓曰「宜哉、兄弟怡々、天下歸德。篤於親族、則民興仁。」 |
顕宗天皇の即位
顕宗元年 乙丑 485年
正月一日 大臣・大連らは奏言して
「億計皇太子は聖徳が明らかに盛んで、天下をお譲りになりました。陛下は正統でいらっしゃいます。
日嗣 を奉り、国家祭祀の主となり、皇祖の無窮の勢いを受け継いで、上は天の心を担い、下は人民の心をいたわって下さい。
ですから践祚を善しとしていただかないと、遂には金銀を産する隣りの蕃国の群僚、遠近の全てのものが失望します。
皇太子の推し譲られることによって、聖徳はいよいよ盛んとなり、皇位の幸いは、はなはだに明らかであります。
幼い頃から働き、敬意をもって謙り、慈しみのお心でいられました。お兄様のご命令をお受けになって、大業を受けついで下さいませ」
弘計王は詔して
「ゆるす」
お仕えする百官は皆、大いに喜びました。
そこで、公卿百僚を 近飛鳥八釣宮 「1」に集めて、天皇に即位されました。
「弘計天皇(をけのすめらみこと=顕宗天皇)の宮は二つあったという。その一の宮は少郊「2」、二の宮は池野「2」にあった」
と伝わります。
またある本では
「甕栗「2」に宮を造った」
と伝わります。
是月 難波小野王(なにはのをののみこ)を皇后とされました。大赦を行われました。
難波小野王は允恭天皇の曾孫で、磐城王 の孫で、丘稚子王 の娘です。
原 文
元年春正月己巳朔、大臣・大連等奏言「皇太子億計、聖德明茂、奉讓天下。陛下正統、當奉鴻緖、爲郊廟主、承續祖無窮之烈、上當天心、下厭民望。而不肯踐祚、遂令金銀蕃國群僚、遠近莫不失望。天命有屬、皇太子推讓、聖德彌盛、福祚孔章、在孺而勤、謙恭慈順。宜奉兄命、承統大業。」制曰「可。」乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮、卽天皇位、百官陪位者、皆忻々焉。或本云「弘計天皇之宮有二所焉、一宮於小郊、二宮於池野。」又或本云「宮於甕栗。」是月、立皇后難波小野王、赦天下。難波小野王、雄朝津間稚子宿禰天皇曾孫、磐城王孫、丘稚子王之女也。 |
ひとことメモ
近飛鳥八釣宮
奈良県高市郡明日香村八釣にある弘計皇子神社が近飛鳥八釣宮だとされています。
がしかし、本来、明日香村は「遠つ飛鳥」で、「近つ飛鳥」は河内国の飛鳥地方(羽曳野市の山側)を指します。
ですので、羽曳野市に存在したのではないかという指摘もあるようですよ。
少郊、池野、甕栗
「ある本では、、、」ということで、顕宗天皇の宮として少郊、池野、甕栗の3か所が上がってます。
この中の甕栗宮は清寧天皇の宮ですから、「播磨国から大和国に戻ってきたときに入った宮」と考えられます。
これを基準として、ここで紹介されている宮の場所は、天皇になる前の住まいという意味だと仮定すると、、、
少郊と池野は大和に戻る前の播磨国での宮があった場所なのかもしれません。
というわけで調べると、、、
播磨国風土記 美嚢郡の条に、
二王(億計と弘計)がこの土地に、高野の宮、少野の宮、川村の宮、池野の宮を営んだ
と記されているではないですか。この中の少野の宮と池野の宮が顕宗天皇の宮だったという可能性が高そうですよ。
となると、残りの高野の宮と川村の宮は、億計王の宮だったのでしょう。
で、少野宮と池野宮の伝承地を探してみたところ、ないのです。
ですので、枠を広げて、小野や池野という名の付く地域を捜してみたところ、、、
少野は、宍粟市の上小野、小野市の小野町(現:来住、下来住あたり?)ぐらいしか発見できませんでした。
でも、来住なんかいい感じだと思います。皇子がやって来て住んだ場所、、、なんて。
池野は、小野市志染町窟屋の旧名が「池野村」だったと判明。よって、逃げ込んだ縮見山の石室あたりに住まいしたんですね。
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