日本書紀|第二十三代 顕宗天皇⑧|月神と日神・紀生磐宿禰の反乱

2021年10月25日

弘計天皇 -おけのすめらみこと-
第二十三代  顕宗天皇 -けんぞうてんのう-

続き、、、

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月の神と日の神

顕宗3年 丁卯(ひのとのう) 487

二月一日 阿閉臣事代あへのおみ ことしろ 「1」は、天皇の命を受けて任那に使者として出向きました。

この時、月の神が、人に乗り移り、

「我が先祖、高皇産霊たかみむすひは、天地がお造りになった功がある。民の地を我が月神に奉納せよ。もし、我が願う献上を行えば、慶福があるだろう」

と仰せられました。

事代は、京に戻り奉上して、歌荒樔田うたあらすだ 歌荒樔田は 山背國やましろのくに の 葛野郡かどののこほり にある を奉納し、 壹伎縣主いきのあがたぬし 「2」の先祖の 押見宿禰おしみのすくね が祠をお祀りして仕えました。

三月上巳(かみのみのひ=三日) 後苑みそのにお出ましになり曲水宴を催されました。

四月五日 日の神が、人に乗り移り、阿閉臣事代あへのおみ ことしろ に

磐余いわれの田を我が祖の高皇産霊に献上せよ」

と仰せられましたので、事代は奉上して、神の要望のままに田十四町を献上しました。

そして、對馬下縣直つしまのしもつあがたのあたひ  「3」が祠をお祀りして仕えました。

同月十三日 福草部さきくさべ を置かれました。

同月二十五日 顕宗天皇が八釣宮で崩御されました。

 原 文

三年春二月丁巳朔、阿閉臣事代、銜命、出使于任那。於是、月神、著人謂之曰「我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功、宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶。」事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田歌荒樔田者、在山背國葛野郡也、壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠。

三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丙辰朔庚申、日神、著人謂阿閉臣事代曰「以磐余田、獻我祖高皇産靈。」事代、便奏。依神乞獻田十四町、對馬下縣直、侍祠。戊辰、置福草部。庚辰、天皇崩于八釣宮。

 

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紀生磐宿禰きのおひはのすくね の反乱

この年、紀生磐宿禰きのおひはのすくね 「4」は、任那から高麗へ行き来し、三韓の王となろうとして、役所を創って、自らを神聖かみと名乗りました。

任那の左魯さる那奇他甲背なかたかふはい らが計略を使って、百済の 適莫爾解ちゃくまくにげ を 爾林にりむ で殺し爾林は高麗の地名である帯山城たいざんのさし  を築いて、東道を封鎖し、食料を運ぶ港を封鎖し、百済軍を飢えで苦しめました。

百済王は激怒し、古爾解こにげ・内頭の 莫古解まくこげ らの軍を派遣して、兵を率いて帯山を攻撃しました。生磐宿禰は軍を進めて逆襲。勢い盛んで向かう敵を皆撃破。一人が百人に当たる勢いでした。

しかししばらくすると兵の力も尽き、失敗を自覚して、任那に撤退しました。百済国は 左魯さる那奇他甲背なかたかふはい らの三百余人を殺しました。

 原 文

是歲、紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗、將西王三韓、整脩宮府、自稱神聖。用任那左魯・那奇他甲背等計、殺百濟適莫爾解於爾林。爾林、高麗地也。築帶山城、距守東道、斷運糧津、令軍飢困。

百濟王、大怒、遣領軍古爾解・內頭莫古解等、率衆趣于帶山攻。於是、生磐宿禰、進軍逆擊、膽氣益壯、所向皆破、以一當百。俄而兵盡力竭、知事不濟、自任那歸。由是、百濟國、殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人。

 

ひとことメモ

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阿閉臣事代あへのおみ ことしろ

阿閉臣は、九州と朝鮮半島を結ぶ海路を勢力範囲とした氏族で、任那を通じて高句麗や百済との調整約を任されていたようです。

事代は事代主神と同じく、託宣を司る人を指します。だから神懸かった人から神を言葉を聞きだしたのでしょう。

このようなことから、蘇我氏が台頭するまでは半島外交を、そして中臣氏(藤原氏)が台頭するまでは中央祭祀を阿閉臣が掌握していたように想像できます。

その祭祀、特に亀卜儀式を掌握する過程が、月神と日神を祀り神田を献上した話として描かれているように思えてきますね。

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壹伎縣主いきのあがたぬし

壱岐県主は、対馬と九州の中間に浮かぶ壱岐島を掌握した古代氏族でした。

その壱岐県主が月神の祠を祀り仕えたということは、月神は壱岐島にある式内社 「壹岐嶋壹岐郡 月讀神社 名神大」の月神だろうと想像できますね。

また、壱岐県主は祭祀亀卜を事とする氏族でした。

阿閉氏と壱岐県主の結びつき以降、宮廷儀礼に卜部が参加するようになったと思われます。

ちなみに、歌荒樔田うたあらすだに祀った祠は、しばしば洪水の被害に遭ったため、松尾山の麓に遷座しました。式内社「山城國葛野郡 葛野坐月讀神社 名神大 月次新嘗」に比定されています。

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對馬下縣直つしまのしもつあがたのあたひ

対馬は、朝鮮半島釜山と壱岐島の中間に浮かぶ、大きな2つの島と複数の小島で構成される群島で、対馬の南半分を統治する氏族が対馬下県直です。

その対馬下県直が日神の祠を祀り仕えたということは、式内社「對馬嶋下縣郡 阿麻氐留神社」の天日神命なんだろうと想像できます。

対馬下県直もまた、祭祀亀卜を事とする氏族でした。

日の神の祠は、大和国十市郡磐余にある目原坐高御魂神社に比定する説と、山城国葛野郡の木嶋坐天照御魂神社に比定する説があります。

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紀生磐宿禰きのおひはのすくね

紀生磐宿禰きのおひはのすくね は、雄略天皇紀に登場しました。

要約すると、、、

雄略天皇9年(465年)5月、雄略天皇の命を受けての新羅との戦いで、朝廷軍の大将だった父「小弓」が病死。
代わりに、小弓の子である「紀生磐」が百済に向かうが、傍若無人な言動によって大将格の小鹿火宿禰を怒らせてしまう。小鹿火は、蘇我韓子を使って、紀生磐を暗殺しようとしたが、韓子は返り討ちにされた。
全軍帰還に際して、小鹿火は紀生磐に嫌気がさしていたので、角国(山口県)に留まってしまう。

ここで再び朝鮮半島へ。しかも、自ら神聖かみを名乗って。

理由はわかりません。病死した父の弔い合戦のつもりだったのでしょうか。

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