日本書紀|第八代 孝元天皇|
大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
第八代 孝元(こうげん)天皇
即位前
大日本根子彦国牽天皇(=孝元天皇)は、大日本根子彦太瓊天皇(=孝霊天皇)の皇太子です。母は細媛命(くわしひめのみこと)で、磯城縣主大目(しきのあがたぬしおほめ)の娘です。
孝霊三十六年
春正月に皇太子となられました。十九歳でした。
孝霊七十六年
春二月に孝霊天皇が崩御されました。
原文
大日本根子彦國牽天皇 大日本根子彦太瓊天皇太子也 母曰細媛命 磯城縣主大目之女也 天皇 以大日本根子彦太瓊天皇卅六年春正月 立爲皇太子 年十九 七十六年春二月 大日本根子彦太瓊天皇崩 |
即位と宮
孝元元年(前214)
正月十四日 皇太子が天皇に即位されました。この年は太歳丁亥でした。
孝元4年(前211)
三月十一日 都を輕(かる)の地に遷されました。これを境原宮(さかいはらのみや)といいます。
原文
元年春正月辛未朔甲申 太子卽天皇位 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲丁亥 四年春三月甲申朔甲午 遷都於輕地 是謂境原宮 |
かんたん解説
軽境原宮
境原宮の伝説地は、奈良県橿原市大軽町や見瀬町周辺にあったと伝わっています。
現在、見瀬町の牟佐坐神社は、かつて「境原天神」と称していたらしく、それを以って宮跡にあたると考え、鳥居へと続く参道の脇に「軽境原宮阯」の石碑が建てられています。
すぐちかくに、4代懿徳天皇の曲峽宮跡もありますので、合わせての見学をお勧めします。
先帝の御陵
孝元6年(前209)
九月六日 孝霊天皇を片丘馬坂陵(かたをかのうまさかのみささぎ)に埋葬申し上げました。
原文
六年秋九月戊戌朔癸卯 葬大日本根子彦太瓊天皇于片丘馬坂陵 |
かんたん解説
片丘馬坂陵
片丘馬坂陵は、奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目の自然丘に治定されています。
延喜式の諸陵寮に、陵域は550m四方で、守戸5世帯で管理していた遠陵だとしていますが、場所がわからなくなり、江戸時代中期の探索で現在地に治定したといいます。
これまでの歴代天皇の御陵は、畝傍山周辺か御所市内に密集していますが、孝霊天皇の御陵だけが遠く離れた王寺町にあります。
孝霊天皇の廬戸宮も、歴代天皇の宮から遠く離れた田原本町にありましたよね。何なんでしょうか。
皇后と皇子
孝元7年(前208)
二月二日 天皇は鬱色謎命(うつしこめのみこと)を皇后とされました。
皇后は、二男一女をお生みになられました。
- 第一子は大彦命(おほひこのみこと)
- 第二子は稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)
- 第三子は倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)ある話では、天皇と同母の弟の少彦男心命(すくなひこをこころのみこと)とも伝わります。
妃の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)は、
- 彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)
をお生みになりました。
妃の河内青玉繫(かふちのあをたまかけ)の娘の埴安媛(はにやすひめ)は、
- 武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)
をお生みになりました。
さて、長男の大彦命(おほひこのみこと)は、
- 安倍臣(あへのおみ)
- 膳臣(かしはでのおみ)
- 阿閉臣(あへのおみ)
- 狭狭城山君(ささきのやまのきみ)
- 筑紫國造(つくしのくにのみやつこ)
- 越國造(こしのくにのみやつこ)
- 伊賀臣(いがのおみ)
の始祖です。
そして、彦太忍信命(ひこふとおしのまことのみこと)は、
- 武内宿禰(たけうちのすくね)
の祖父となる人です。
原文
七年春二月丙寅朔丁卯 立欝色謎命爲皇后 后生二男一女 第一曰大彦命 第二曰稚日本根子彦大日々天皇 第三曰倭迹々姬命一云 天皇母弟少彦男心命也 妃伊香色謎命 生彦太忍信命 次妃河內靑玉繋女埴安媛 生武埴安彦命 兄大彦命 是阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣 凡七族之始祖也 彦太忍信命 是武內宿禰之祖父也 |
かんたん解説
皇后:鬱色謎命(うつしこめ)
出自は次の開化天皇記で述べられていますが、穂積臣の遠祖となる欝色雄命の妹です。
欝色雄命は、饒速日命6世孫の大水口宿禰命の子とされていますから、饒速日尊の直系となりましょう。なので後裔の穂積氏は物部氏の正統といわれるのです。
いよいよ皇統に物部氏が関与してきました。これが後の世に大きな影響を与えることになるのですが、、、
皇后の生んだ子について少しだけ、、、
大彦命
崇神天皇の御代に、四道将軍の一人として大活躍します。娘は崇神天皇の皇后です。
倭迹迹姫命
孝霊天皇の皇女に、大物主神と結婚したという倭迹迹日百襲姫命がいました。名前がよく似ていますが別の姫です。
”ある話では、天皇と同母の弟の少彦男心命(すくなひこをこころのみこと)とも伝わります。”
という注釈の意味が分かりにくいですね。
ヒントは古事記にあります。
孝元天皇が穗積臣(ほづみのおみ)らの祖の内色許男命(ウツシコヲの命)の妹の内色許賣命(ウツシコメの命)を娶って生まれた御子は、
の三人でした。 |
おそらくですが、日本書記の少彦男心命と、古事記の少名日子建猪心命は同一人物だと思われます。
ですから、”ある話では、天皇と同母の弟の少彦男心命(すくなひこをこころのみこと)とも伝わります。” の意味は、
- 第三子は倭迹々姬命ではなく少彦男心命だったのかもよ
- 少彦男心命を合わせた4人兄弟だったのよ
のいずれかだと思います。
妃:伊香色謎命(いかがしこめ)
物部氏の遠祖であるところの大綜麻杵の娘。伊香色雄命の妹といった方がわかりやすでしょうか。一緒か、、、
皇后の鬱色謎命もスゴイ子達を産みましたが、この姫もスゴイ姫なんです。
- 孝元天皇の妃として、あの伝説の大臣「武内宿禰」の父親「彦太忍信命」を生みました。スゴイ。
- 開化天皇の皇后として、あの御肇国天皇の称号を持つ「崇神天皇」を生みました。スゴイ。
- 当然ながら、垂仁天皇は孫となります。スゴイ。
妃:埴安媛
逆に、この姫は可哀想な姫です。
埴安姫神というと、伊弉冉尊が火の神カグツチを生んだがために陰部に大火傷を負い、苦しんでいるときに漏らした大便から生まれた神で、土器などを造る粘土の神とされています。
ウンコさんを連想させる名前とは、、、可哀想。
さらに、子供の「武埴安彦命」が10代崇神天皇に謀反を起こして誅殺されます、、、可哀想。
立太子
孝元22年(前193)
正月十四日 稚日本根子彦大日日尊を皇太子に立てられました。十六歳でした。
原文
廿二年春正月己巳朔壬午 立稚日本根子彦大日々尊 爲皇太子 年十六 |
崩御
孝元57年(前158)
九月二日 孝元天皇が崩御された。
原文
五十七年秋九月壬申朔癸酉 大日本根子彦牽天皇崩 |
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