日本書紀|第七代 孝霊天皇|
大日本根子彦太瓊天皇(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)
第七代 孝霊(こうれい)天皇
即位前
大日本根子彦太瓊天皇(=孝霊天皇)は、日本足彦国押人天皇(=孝安天皇)の皇太子です。母は押媛(おしひめ)といい、おそらく、天足彦国押人命の娘でしょう。
孝安七十六年(前317)
春正月に、皇太子となられました。
孝安百二年(前291)
春正月に孝安天皇は崩御されました。
原文
大日本根子彦太瓊天皇 日本足彦国押人天皇太子也 母曰押媛 蓋天足彦国押人命之女乎 天皇 以日本足彦国押人天皇七十六年春正月 立爲皇太子 百二年春正月 日本足彦国押人天皇崩 |
かんたん解説
押媛
「孝霊天皇」のお母さんである「押媛皇后」は、父「孝安天皇」のお兄さん「天足彦国押人命」の娘です。「蓋」=たぶんね。
と書かれてあります。
「たぶんね。」とは、どういうことでしょうか。
おそらく「孝安天皇」のお兄さんが複数いた可能性があるけど、わかっているのが「天足彦国押人命」ひとりだけなので、「たぶん」この人の娘なんでしょう、という意味かと思います。たぶんね。
先帝の御陵
同年(前291)
秋九月十三日に孝安天皇を玉手丘上陵(たまてのをかのうえのみささぎ)に埋葬申し上げました。
原文
秋九月甲午朔丙午 葬日本足彦国押人天皇于玉手丘上陵 |
かんたん解説
玉手丘上陵
ラグビーの強豪校「御所実業高校」の東、奈良県御所市大字玉手にある円丘に治定されています。御所の平野部に突き出た丘陵の先っちょにあり、見晴らしの良い立地です。
すぐ近くに孝安天皇社が鎮座。もちろん祭神は孝安天皇です。
拝殿内には奉納された絵馬が飾られ、独特な雰囲気があります。本殿の前まで進むことが可能な神社です。神聖な雰囲気を感じることが出来るでしょう。
孝霊天皇の宮
同年(前291)
十二月四日 皇太子は、都を黒田(くろだ)に遷しました。これを廬戸宮(いほとのみや)といいます。
原文
冬十二月癸亥朔丙寅 皇太子遷都於黒田 是謂廬戸宮 |
かんたん解説
黒田の廬戸宮
現在、田原本大字黒田の法楽寺境内に石碑が立ってますが、伝承以外に、ここだという確証はないようです。
大和志料の黒田廬戸宮の説明文に「式下郡都村の大字に黒田・宮古がある。その間には都杜・都前・内裏坪・大君の字が存在する。」とありますから、黒田と宮古あたりにはあったんでしょうね。
他にも、田原本町大字伊与戸だとする説もありますが、いずれにしても、すべて田原本町内。
ここまでの歴代天皇の宮は山沿いにあったのに対して、田原本町は盆地の中央部です。
統治の大きな転換期を迎えたということなのでしょうか。
即位
孝霊元年(前290)
正月十二日 皇太子は天皇に即位しました。この年、太歳辛未(かのとのひつじ)でした。
原文
元年春正月壬辰朔癸卯 太子卽天皇位 尊皇后曰皇太后 是年也 太歲辛未 |
皇后と皇子
孝霊2年(前289)
二月十一日 細媛命(くわしひめのみこと)を皇后としました。
ある話では、春日千乳早山香媛(かすがの ち ち はや やまかひめ)と伝わります。
或いは、十市縣主等(とおちのあがたぬしら)の娘の眞舌媛(ましたひめ)とも伝わります。
皇后は、大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)をお生みになりました。
妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ)亦の名は絚某姉(はへいろね)といいますは、
- 倭迹迹比百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
- 彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)亦の名は吉備津彦命(きびつひこのみこと)
- 倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)
をお生みにまりました。
また、妃の絚某弟(はへいろど)が、
- 彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)
- 稚武彦命(わかたけひこのみこと )
をお生みになりました。弟の稚武彦命は吉備臣の始祖です。
原文
二年春二月丙辰朔丙寅 立細媛命 爲皇后一云 春日千乳早山香媛 一云 十市縣主等祖女眞舌媛也 后生大日本根子彦国牽天皇 妃倭国香媛亦名絚某姉 生倭迹々日百襲姬命・彦五十狹芹彦命亦名吉備津彦命・倭迹々稚屋姬命 亦妃絚某弟 生彦狹嶋命・稚武彦命 弟稚武彦命 是吉備臣之始祖也 |
かんたん解説
3人の皇后伝承
細媛命
本文に記載ある皇后は、磯城県主大目の娘「細媛命」。古事記では、十市県主の祖である大目の娘「細比売」とあります。
となれば、十市県主は磯城県主からの枝分かれで、かつ、春日県主が十市県主に改名したということもいわれてますので、磯城県主から春日県主が独立し、その春日県主が十市県主に改名したという理解でいいのでしょうかね。
- 2代綏靖天皇・・・事代主神の娘の五十鈴依媛
- 3代安寧天皇・・・事代主神の孫の鴨王の娘の渟名底仲媛命
- 4代懿徳天皇・・・安寧天皇の第一皇子の息石耳命の娘の天豊津媛命
- 5代孝昭天皇・・・葛城国造剣根命の孫の世襲足媛
- 6代孝安天皇・・・孝安天皇の姪の押媛
- 7代孝霊天皇・・・磯城県主大目の娘の細媛命
で、「ある話では、、、」として登場する二人の姫は、おそらくは妾妃です。
春日千乳早山香媛
これまたややこしい人が出てきました。この時すでに、春日県主は十市県主に改名していますから、この春日は今までの春日県主ではないのでしょう。
- ホツマツタヱに、「オシキネ(天足彦国押人命)を親王とし春日を賜る」とあります。
- 日本書記孝昭天皇記には、「天足彦国押人命は和珥臣等の始祖」とあります。
- そして、和珥氏同族に春日氏があり、その本拠は奈良市東部にあります。
このようなことから、旧春日県主が十市県主に改名したのは、別の場所に(奈良市東部に)別の春日県が新設されたためではないかなと想像します。想像です。
話を皇后伝承に戻しましょう。
ホツマツタヱに、
「春日のチハヤがヤマカ姫なる典侍后」
とあります。春日チハヤのヤマカ姫が宮中に入り典侍后になったということでしょう。
前述のオシキネ(天足彦国押人命=春日親王)の子が「春日のチハヤ」であり、その娘がヤマカ姫。すなわち、春日のチハヤのヤマカ姫=春日千乳早山香媛となるわけですね。
眞舌媛
眞舌媛は十市県主の姫です。大和志料にある十市県主系図を見ると、父は十市県主大日彦となっています。
ホツマツタヱでは、「十市 マソヲが マシタ姫 勾当となる」とありますから、妃の格は内宮(皇后)ではなく勾当です。
二人の妃
3人の皇后に関する伝承は、細媛命が皇后、春日千乳早山香媛が大典侍、眞舌媛が勾当でした。
では、それに続く二人の妃はどんな姫だったのでしょうか。
古事記の安寧天皇記に次のような記述があります。
懿徳天皇には3柱の御子がいました。 その末子の師木津日子命(磯城津彦命)には子が二人いました。 その師木津日子命の第二子の和知都美命は淡道の御井宮にいました。 和知都美命には娘が二人。 その姉妹の名は、姉が蝿伊呂泥(はえいろね)別名を意富夜麻登久邇阿札比売(おおやまとくにあれひめ)といい、妹は蝿伊呂杼(はえいろど)といいます。 |
ホツマツタヱによると、絚某姉(はへいろね)、絚某弟(はへいろど)の二人とも、内侍妃です。
いずれにしても、この二人が産んだ子供たちは優秀で、崇神天皇記あたりで大活躍しますから覚えておいてくださいね。
皇太子
孝霊36年(前255)
正月一日 彦国牽尊を皇太子とされました。
原文
卅六年春正月己亥朔 立彦国牽尊 爲皇太子 |
崩御
孝霊76年(前215)
二月八日 孝霊天皇が崩御されました。
原文
七十六年春二月丙午朔癸丑 天皇崩 |
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