第五代 孝昭天皇|

観松彥香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
第五代 孝昭(こうしょう)天皇 

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即位前

観松彥香殖稲天皇(=孝昭天皇)は、大日本彥耜友天皇(=懿德天皇)の皇太子です。

母は天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)で、息石耳命(おきそみみのみこと)の娘です。

懿徳22年

二月十二日に皇太子となられました。

懿徳34年

九月 懿徳天皇が崩御されました。

翌年

十月十三日 懿徳天皇を畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのへのみささぎ)に埋葬申し上げました。

 原文

觀松彥香殖稻天皇 大日本彥耜友天皇太子也 母皇后天豐津媛命 息石耳命之女也 天皇 以大日本彥耜友天皇廿二年春二月丁未朔戊午 立爲皇太子 卅四年秋九月 大日本彥耜友天皇崩 明年冬十月戊午庚午 葬大日本彥耜友天皇於畝傍山南纎沙谿上陵

 かんたん解説

畝傍山南纎沙渓上陵

平安時代の延喜式に、「陵域は110m四方あり、守戸5世帯で管理していた遠陵」と記載がありますが、肝心の場所については、わからなくなってしまいました。

よって、現在、宮内庁にて比定されている場所は幕末に決めた場所らしく、畝傍山の南西麓のマナゴ谷の奥にある自然丘に比定しています。橿原神宮から見るとちょうど畝傍山のなだらかな尾根を挟んだ反対側の麓にあります。

橿原神宮の北神門から北に250mほどの森の中に池田神社があります。こちら、懿徳天皇を祀る神社なのですが、その鎮座地は「イトクノモリ古墳」の後円部頂上なのです。

このイトクノモリ古墳が懿徳天皇の御陵だという説もあったのですが、現在は皇后の天豊津媛命の墳墓だとされています。

即位

孝昭元年(前475)

正月九日 皇太子が天皇に即位されました。

七月 都を掖上(わきのかみ)に遷し、その名を池心宮(いけこころのみや)といいます。

この年は太歳丙寅(ひのえのとら)でした。

 原文

元年春正月丙戌朔甲午 皇太子卽天皇位 夏四月乙卯朔己未 尊皇后曰皇太后 秋七月 遷都於掖上 是謂池心宮 是年也 太歲丙寅

 かんたん解説

掖上の池心宮

伝承地は、御所市池ノ内です。「掖上池心宮阯」という石碑が、ラグビーの強豪校「御所実業高校」正門横の個人所有地内(と思われます)に立っています。

この御所実業高校あたりは、古代の人工池「掖上池」があったと想定されることから、ここを池心宮の比定地としたらしいです。

ここから西へ1kmほどの所に、鴨氏の拠点の一つ積羽八重事代主神を祀る鴨都波神社がありますので、葛城氏・鴨氏との関係の深さが見て取れます。

皇后と皇子

孝昭29年(前447)

正月三日 世襲足姫(よそたらしひめ)を皇后とされました。

ある話では、磯城縣主葉江(しきのあがたぬし はえ)の娘で渟名城津媛(ぬなきつひめ)とも伝わります。
またある話では、倭國の豐秋狭太媛(とよあきさだひめ)の娘の大井媛(おほゐひめ)とも伝わります。

皇后は、天足彥國押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彥國押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)をお生みになりました。

孝昭68年(前408)

正月十四日 天皇は日本足彥國押人尊を立てて皇太子とされました。御年20歳でした。

兄の天足彥國押人命は、和珥臣等(わにのおみら)の始祖です。

 原文

廿九年春正月甲辰朔丙午 立世襲足媛爲皇后一云 磯城縣主葉江女渟名城津媛 一云 倭國豐秋狹太媛女大井媛也 后生天足彥國押人命・日本足彥國押人 天皇六十八年春正月丁亥朔庚子 立日本足彥國押人尊 皇太子 年廿 天足彥國押人命 此和珥臣等始祖也

 かんたん解説

世襲足媛

神武から懿徳までの皇后には、その出自が明らかにされていましたが、「世襲足媛を皇后とした」としか記載されていません。

と思いきや、第六代考安天皇記に「尾張連の遠祖の瀛津世襲(おきつよそ)の妹」と明かされています。ややこしい。

尾張氏の祖とされる瀛津世襲の父親は天忍男命。母親は賀奈良知姫。この賀奈良知姫の父親が剣根命。

そうです。神武天皇東征における論功行賞で葛城国造を賜った剣根命です。ですから、世襲足媛が嫁いだ当時は尾張連の姫という認識ではなく、葛城氏の血を受け継ぐ姫ということになりましょう。

渟名城津媛

まままた出ました。磯城県主葉江の娘です。

ここまでの歴代天皇の妃に、磯城県主出身の姫が連続して入っています。姫の父と宮中での待遇をば、2代ほど先まで整理しておきます。

  • 2代綏靖天皇・・・磯城県主黒速の娘で川派媛・・・大典侍
  • 3代安寧天皇・・・磯城縣主葉江の娘で川津媛・・・典侍
  • 4代懿徳天皇・・・磯城縣主葉江の弟の猪手の娘で泉媛・・・典侍
  • 5代孝昭天皇・・・磯城縣主葉江の娘で渟名城津媛・・・典侍
  • 6代孝安天皇・・・磯城縣主葉江の娘で長媛・・・大典侍
  • 7代孝霊天皇・・・磯城縣主大目の娘で細媛命・・・☆☆皇后☆☆

大井媛

豊秋狭太媛(とよあきさたひめ)の娘とあります。宮中での待遇は「長橋」です。

大井媛は、大和志料の十市県主系図に見えます。大井姫の注釈に「孝昭天皇妾妃」と記されていますから間違いないです。

ですので大井媛は十市県主の出身となりましょう。

と思いましたが、

その親の欄にある「豊秋狭太彦」(なぜか彦になっている)の注釈に春日県主とあり、大井媛の兄「五十坂彦」の注釈に「孝昭天皇の御代に改名し十市県主となった」とありますので、

ちょうど春日県主から十市県主に変更する境目だったようですよ。

崩御

孝昭83年(前393)

八月五日 孝昭天皇が崩御されました。

 原文

八十三年秋八月丁巳朔辛酉 天皇崩

 

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