日本書紀|第二十四代 仁賢天皇①|皇子女・難波小野皇后の自死

2021年10月25日

億計天皇(おけのすめらみこと)
第二十四代 仁賢(にんけん)天皇

 

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仁賢天皇の即位前紀

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億計天皇おけのすめらみこと仁賢天皇にんけんてんのう )は、いみな 「1」大脚おほし といい、他には 大為おほす(おほす)ともいいます。この天皇以外の諱や字は書かれていません。この天皇だけに書いたのは、旧本に依るからだそうです。 あざな「1」嶋郎しまのいらつことおっしゃいます。顕宗天皇の同母兄です。

幼い時から聡明で、才は敏にして博学でした。壮年に及んでは仁恵に厚く、優しくて憐れみ深いおかたでした。

安康天皇が崩御された時に、丹波国たにはのくに の 余社郡よざのこほり(京都府与謝郡)に避難しました。

清寧天皇 元年

十一月に、播磨国司はりまのくにのみこともち山部連小楯やばべのむらじ をだてが、京に参内して迎えを求めました。

清寧天皇は小楯を遣わし、節を持たせ、側近の舎人を付けて、赤石までお迎えにいかせました。

清寧天皇 2年

四月に、遂に億計王(=後の仁賢天皇)は皇太子となりました。

詳しくは顕宗天皇紀に書かれています

清寧天皇 5年

清寧天皇が崩御されました。

億計王(=後の仁賢天皇)は天下を顕宗天皇にお譲りになり、自分は皇太子となられました。元のままということになります。

詳しくは顕宗天皇紀に書かれています

顕宗天皇 3年

四月に、顕宗天皇が崩御されました。

 原 文

億計天皇、諱大脚 更名大爲。自餘諸天皇、不言諱字、而至此天皇、獨自書者、據舊本耳、字嶋郎、弘計天皇同母兄也。幼而聰頴、才敏多識、壯而仁惠、謙恕温慈。及穴穗天皇崩、避難於丹波國余社郡。

白髮天皇元年冬十一月、播磨國司山部連小楯、詣京求迎。白髮天皇、尋遣小楯、持節、將左右舍人、至赤石奉迎。
二年夏四月、遂立億計天皇、爲皇太子。事具弘計天皇紀也。
五年、白髮天皇崩。天皇、以天下讓弘計天皇、爲皇太子、如故。事具弘計天皇紀也。
三年夏四月、弘計天皇崩。

 

即位と皇子女

仁賢元年 戊辰つちのえのたつ 488年

正月五日

億計天皇おけのすめらみこと(以後、仁賢天皇)が、石上廣高宮いそのかみのひろたかのみや  「2」で即位されました。

ある本には

「仁賢天皇の宮は二か所あり、一の宮は川村かわむら 、二の宮は縮見しじみ の高野「3」にあります。その宮殿の柱は今もなお朽ちずに残っています」

と伝わります

二月二日 前妃さきのみめ の春日大娘皇女かすがのおほいらつめのみこ を皇后とされました。

春日大娘皇女は、雄略天皇と和珥臣深目わにのおみ ふかめ の娘の童女君をみなきみ との子です。

皇后は、なんと一男六女をお生みになりました。

  • 第一子は高橋大娘皇女たかはしのおほいらつめのみこ
  • 第二子は朝嬬皇女あさづまのひめみこ
  • 第三子は手白香皇女たしらかのひめみこ
  • 第四子は樟氷皇女くすびのひめみこ
  • 第五子は橘皇女たちばなのひめみこ
  • 第六子は  小泊瀬稚鷦鷯天皇をはつせのわかさざきのすめらみことで、のちに泊瀬の列城なみき で天下を治められました。
  • 第七子は眞稚皇女まわかのひめみこ   

ある本には「 樟氷皇女くずびのひめみこ を第三子とし、手白香皇女たしらかのひめみこ を第四子とする」と、違うことが書かれています

とおっしゃいます。

次に、和珥臣日爪わにのおみ ひつめ の娘の 糠君娘あらきみのいらつめ は一女を生みました。

  • 春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ

とおっしゃいます。

ある本には

和珥臣日触わにのおみ ひふれの娘の 大糠娘生おほあらのいらつめが一女を生み、山田大娘皇女まだのおほいらつめのみこといいます。亦の名を赤見皇女あかみのひめみこといいます」

と書かれています。文は違えども、中身は同じことです

十月三日 顕宗天皇を傍丘磐杯丘陵かたをかのいはつきのをかのみささぎ 「4」に埋葬申し上げた。

この年、大歳たいさい 戊辰つちのえのたつ です。

 原 文

元年春正月辛巳朔乙酉、皇太子、於石上廣高宮、卽天皇位。或本云「億計天皇之宮、有二所焉。一宮於川村、二宮於縮見高野、其殿柱至今未朽。」

二月辛亥朔壬子、立前妃春日大娘皇女、爲皇后。春日大娘皇女、大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生也。遂産一男六女、其一曰高橋大娘皇女、其二曰朝嬬皇女、其三曰手白香皇女、其四曰樟氷皇女、其五曰橘皇女、其六曰小泊瀬稚鷦鷯天皇、及有天下都泊瀬列城、其七曰眞稚皇女。一本、以樟氷皇女列于第三、以手白香皇女列于第四、爲異焉。次和珥臣日爪女糠君娘、生一女、是爲春日山田皇女。一本云「和珥臣日觸女大糠娘、生一女、是爲山田大娘皇女、更名赤見皇女。」文雖稍異、其實一也。冬十月丁未朔己酉、葬弘計天皇于傍丘磐杯丘陵。是歲也、太歲戊辰。

 

難波小野皇后の自死

仁賢2年 己巳つちのとのみ 489年

九月 難波小野皇后なにはのをののきさき(顕宗天皇の皇后)は、以前に皇太子に対して不敬な振舞いをしたことを恐れて、自死されました。「5」

顕宗天皇の御代のこと、皇太子の億計王(仁賢天皇)が宴席にいらっしゃり、瓜を食べようとなさいましたが、小刀がありません。
そこで、顕宗天皇が自ら小刀を取って、夫人の小野に持って行かせましたが、夫人は皇太子の前に来て、立ったまま小刀を瓜皿に置きました。
この日さらに、酒を汲んで、立ったまま皇太子を呼んだ。

このような不敬な振舞いで罰せられることを恐れて自死したのです

仁賢3年 庚午かのえのうま 490年

二月一日 石上部舎人いそのかみのとねり を置かれました。

仁賢4年 辛未かのとのひつじ 491年

五月 的臣いくはのおみの蚊嶋かしま穗瓮君ほへのきみ 「6」は罪があったので、皆、獄に入れられて死にました。

仁賢5年 壬申みずのえのさる 492年

二月五日 国中に散らばって逃げ隠れていた 佐伯部さへきべ を探し求めました。そして、佐伯部仲子さへきべのなかちこ 「7」の子孫を 佐伯造さへきのみやつこ としました。

佐伯部仲子のことは、顕宗天皇紀に書かれています

 原 文

二年秋九月、難波小野皇后、恐宿不敬、自死。弘計天皇時、皇太子億計、侍宴、取瓜將喫、無刀子。弘計天皇、親執刀子、命其夫人小野傳進、夫人就前、立置刀子於瓜盤。是日、更酌酒、立喚皇太子。緣斯不敬、恐誅自死。

三年春二月己巳朔、置石上部舍人。四年夏五月、的臣蚊嶋・穗瓮君 瓮、此云倍有罪、皆下獄死。五年春二月丁亥朔辛卯、普求國郡散亡佐伯部。以佐伯部仲子之後、爲佐伯造。佐伯部仲子事見弘計天皇紀。

 

ひとことメモ

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諱と字

いみなは、むべき名、口にすることが憚られる名といった意味です。古来、貴人を本名で呼ぶのは失礼にあたるとされたので、諱は貴人の本名と言えるでしょう。

それに対してあざなとは、本名ではなく、普段使いの呼び名のことです。

諱で呼ぶのは、親と主君にのみ許されることで、それ以外の人が諱で呼ぶことは、とんでもなく無礼なこととされていました。

なので、わざわざ注釈を入れているのでしょう。

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石上廣高宮いそのかみのひろたかのみや

奈良県天理市石上町にある姫丸稲荷神社が、石上廣高宮いそのかみのひろたかのみや の伝承地となっていて、境内に石碑が立てられています。

この姫丸稲荷神社の伝承によると、

かつてこの社地あたりは「宮の屋敷」という地名で、仁賢天皇の石上廣高宮いそのかみのひろたかのみや 、また御父である市辺押磐皇子が住んだ石上市辺宮も、この地にあった

と伝わっています。

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一の宮は川村、二宮は縮見の高野

顕宗天皇が播磨で住まいした宮は、一の宮が少野(たぶん小野市)で二の宮が池野(三木市)でした。

行動を共にしていたと仮定すると、川村は小野市、高野は三木市にあるのではないかと推察。

推察しましたが、探せませんでした。。。

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傍丘磐杯丘陵かたをかのいはつきのをかのみささぎ

顕宗天皇が眠る傍丘磐杯丘陵は、奈良県香芝市今市にある傍丘磐坏丘南陵みなみのみささぎに治定されています。

なぜ南陵なのかというと、武烈天皇の御陵も同じ傍丘磐杯丘陵だからです。こちらは香芝市今泉にあり、傍丘磐杯丘北陵きたのみささぎとします。

不思議な事に、顕宗天皇と武烈天皇は、年は違いますが同じ日「10月3日」に埋葬されているのです。さらに、在位期間も8年で同じ。

そんなことも含めて、顕宗天皇と武烈天皇は同一人物ではなかろうかという説も飛び出しています。

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難波小野皇后なにはのをののきさきの自死はおかしい?

難波小野皇后なにはのをののきさきの自死には違和感を覚えませんか?

皇后と皇太子を比べたとき、皇后の方が身分は上。死ななければいけないほどの不敬な振舞いとはいえないと思います。

出自にしても、難波小野皇后なにはのをののきさきは、雄略天皇の孫。皇太子は履中天皇の孫。同等ですし。

仮に、それが死ななければならないほどの不敬な振舞いに相当するならば、即位2年目ではなく、仁賢天皇が即位した時点で自死するのではないでしょうか。

こんのようなことから、他に自死しないといけない理由があったのでは?自死に見せかけた他殺だったのでは?と勘繰りたくなりますよね。

それはまた後日で。。。

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的臣いくはのおみの蚊嶋かしま穗瓮君ほへのきみ

的臣蚊嶋と穗瓮君は、他にどこにも登場しないので、どのような罪があったのかなどは謎ですが、

的臣は葛城氏の末裔で、応神天皇の御代に鉄製の盾を射抜いたことから的臣を授かった軍事氏族です。

穗瓮君は君の姓であることからそれなりの豪族の首長クラスだったんでしょう。

何か反乱でも起こしたのでしょうか。。。

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佐伯部仲子さへきべのなかちこ

佐伯部仲子は、履中天皇の皇子である磐坂市辺押磐皇子に帳内(とねり)として仕えた人。

磐坂市辺押磐皇子が雄略天皇に騙し討ちをされたとき同時に殺され、磐坂市辺押磐皇子と穴に埋められました。

それを悼んで、子孫を探し出して佐伯造に取り立てたということですね。

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