日本書紀|第二十四代 仁賢天皇②|飽田女の嘆き・事績と崩御

億計天皇(おけのすめらみこと)
第二十四代 仁賢(にんけん)天皇

続き、、、

 

スポンサーリンク

飽田女あくための嘆き

仁賢6年 癸酉みずのとのとり  493年

九月四日 日鷹吉士ひたかのきしを高麗へ遣わして、功手者てひとを召されました。

この秋 日鷹吉士が使者として派遣された後に、ある女が難波の御津みつで泣きながら言いました。

「私の母にとってであり、私にとってもである、やさしい我が夫は、 ああ遠くへ行ってしまった」

泣く声は酷く悲しくて、聞く人に断腸の思いをさせました。

菱城邑ひしきのむらの人である鹿父かかそはこれを聞いて、

「どうしてこんなに哀しげに泣くのか」

と言いました。

女は答えて、

「秋玉葱が中で二つになっているのを想像してみてください」「6」

と言います。

鹿父かかそは、

「分かった」

と言いました。

 原 文

六年秋九月己酉朔壬子、遣日鷹吉士、使高麗、召巧手者。是秋、日鷹吉士被遣使後、有女人居于難波御津、哭之曰「於母亦兄、於吾亦兄、弱草吾夫何怜矣。」言於母亦兄、於吾亦兄、此云「於慕尼慕是、阿例尼慕是」。言吾夫何怜矣、此云「阿我圖摩播耶」。言弱草、謂古者以弱草喩夫婦、故以弱草爲夫。哭聲甚哀、令人斷腸。

菱城邑人鹿父 鹿父、人名也。俗、呼父爲柯曾、聞而向前曰「何哭之哀、甚若此乎。」女人答曰「秋葱之轉雙雙、重也納、可思惟矣。」鹿父曰「諾。」卽知所言矣。

 

複雑な家庭環境

鹿父と一緒にいた者はよくわからなかったので、

「どうして解ったんだ?」

と言いました。

鹿父は答えて、

難波の玉造部なにわのたまつくりべ鮒魚女ふなめ(祖母)と韓白水郎嘆からまのはたけ(祖父)とが夫婦となって哭女なくめ(母)を生んだ。

その哭女なくめ(母)と住道の山杵やまき(父)とが夫婦となって飽田女あくため(私)を生んだ。

韓白水郎からまのはたけ嘆(祖父)とその娘である 哭女なくめ(母)は既に亡くなっている。

山杵やまき(父)は、難波の玉造部なにわのたまつくりべ鮒魚女ふなめ(祖母)を姧して麁寸あらき(夫)を生ませた。

麁寸あらき飽田女あくためを娶った。

今回、麁寸は日鷹吉士に従って、高麗に発った。それで妻の飽田女は這いずり回って、心迷い悲しんでいる。哭く声は切なく、人に断腸の思いをさせるのだ」

と言いました。

 原 文

有同伴者、不悟其意、問曰「何以知乎。」

答曰「難波玉作部鯽魚女 言鯽魚女、此云浮儺謎、嫁於韓白水郎嘆 言韓白水郎嘆、此云柯羅摩能波陀該。、耕麥田之也、生哭女。哭女言哭女、此云儺倶謎、嫁於住道人・山杵、生飽田女。韓白水郎嘆與其女哭女、曾既倶死。住道人山杵、上姧玉作部鯽魚女、生麁寸。麁寸、娶飽田女。於是、麁寸、從日鷹吉士、發向高麗。由是、其妻飽田女、徘徊顧戀、失緖傷心。」哭聲尤切、令人腸斷。

ある本では

難波の玉造部なにわのたまつくりべ鮒魚女ふなめ(祖母)は、前夫の韓白水郎嘆からまのはたけ(祖父)との間で哭女なくめ(母)を生んだ。

後夫の住道人の山杵やまき(祖父)との間で麁寸あらき(夫)を生んだ。

そこで、哭女なくめ(母)と麁寸あらき(夫)とは異父兄弟であるから、哭女なくめ(母)の娘である飽田女あくため(私)は、麁寸あらきを「母にも兄」と言ったのである。

哭女なくめ(母)は山杵やまき(父)に嫁いで飽田女あくため(私)を生んだ。山杵やまき(父)は鮒魚女ふなめ(祖母)に たわ けて、麁寸あらきを生ませた。

そこで、飽田女あくため(私)と麁寸あらきとは、異母兄弟であるから、飽田女あくためは夫である麁寸あらきを「吾にも兄」といったのである。

昔は、兄弟長幼に拘らず、女は男をと呼び、男は女をいもと呼んだのである。そのために、「母にも兄、吾にも兄」と言ったのである」

と書かれています。

或本云「玉作部鯽魚女、共前夫韓白水郎嘆、生哭女、更共後夫住道人山杵、生麁寸。則哭女與麁寸、異父兄弟之故、哭女之女飽田女、呼麁寸曰『於母亦兄』也。哭女嫁於山杵、生飽田女。山杵又淫鯽魚女、生麁寸。則飽田女與麁寸、異母兄弟之故、飽田女呼夫麁寸曰『於吾亦兄』也。古者、不言兄弟長幼、女以男稱兄、男以女稱妹。故云『於母亦兄、於吾亦兄』耳。」

是歲、日鷹吉士還自高麗、獻工匠須流枳・奴流枳等、今大倭國山邊郡額田邑熟皮高麗、是其後也。

 

事績と崩御

この年(仁賢6年) 日鷹吉士は高麗から帰国して、工匠てひと の須流枳するき ・奴流枳ぬるき らを献上しました。

今、大倭国やまとのくに山邊郡やまのへのこほり の 額田邑ぬかたのむら 「7」熟皮高麗かはをしのこま はこの子孫です。

仁賢7年 甲戌きのえのいぬ 494年

正月三日 小泊瀬稚鷦鷯尊をはつせのわかさざきのみことを立てて皇太子とされました。

仁賢8年 乙亥きのとのゐ 495年

十月 百姓は「国中には混乱がなく、役人はその務めを果たし、天下は仁に帰し、民は商いに精を出している」と言いました。

この年 五穀豊穣で、蚕や麦もたくさん収穫でき、国も内も平穏で、民の数は増えました。

仁賢11年 戊寅つちのえのとら 498年

八月八日 仁賢天皇が崩御されました。

十月五日 埴生坂本陵はにふのさかもとのみささぎ  「8」に埋葬申し上げました。

 原 文

七年春正月丁未朔己酉、立小泊瀬稚鷦鷯尊、爲皇太子。

八年冬十月、百姓言「是時、國中無事、吏稱其官、海內歸仁、民安其業。」是歲、五穀登衍、蠶麥善收。遠近淸平、戸口滋殖焉。

十一年秋八月庚戌朔丁巳、天皇崩于正寢。冬十月己酉朔癸丑、葬埴生坂本陵。

 

ひとことメモ

nk-1-6

玉葱の中身が二つ

これは、割れ玉葱とか玉割れとかといって、成長が早すぎた玉葱に起こる現象です。

茶色い皮をむくと、中にニンニクのような形の二つの玉葱が寄り添うようにくっついてます。双子のように。

これを聞いた鹿父が、次のようなことを見破るのだから、天才です。

この家族の相関関係図

このようになりました。

本文に戻る

nk-1-7

山邊郡の額田邑

現在の大和郡山市額田部寺町、額田部北、額田部南あたり。ここに高麗から来た皮製品の職人集団が住んだということです。

古代日本では、死や血は穢れですから、牛馬を殺して皮を剥いで鞣して、、、という作業は穢れそのものだという認識だったのでしょう。

大陸から来た人たちの専業となっていったのだと思います。

本文に戻る

nk-1-8

埴生坂本陵はにふのさかもとのみささぎ

大阪府藤井寺市青山にある野中ボケ山古墳が、仁賢天皇の 埴生坂本陵はにふのさかもとのみささぎ  に治定されています。

本文に戻る

 

日本書紀巻第十五  完

スポンサーリンク