日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑧|大阪平野の本格的な開拓が始まる

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鉄の盾、鉄の的

仁徳12年 甲申(きのえのさる) 324

七月三日 高麗国が鉄の盾と鉄の的を貢上しました。

八月十日 朝廷で高麗の客を饗応しました。そのとき、群臣百寮が集まり、高麗が献上した鉄の盾と鉄の的を射させましたが、誰も射通せませんでした。

そんな中で唯一人、的臣いくはのおみの祖の盾人宿禰たたひとのすくねだけが鉄の的を射通すことができました。これを見た高麗の客たちは、その弓の腕前に畏れて、皆立ち上がって天皇に拝礼しました。

翌日 盾人宿禰たてひとのすくねを褒めて、的戸田宿禰いくはのとだのすくねの名を授けました。

同日 小泊瀬造おはつせのみやつこの祖の宿禰臣すくねのおみに、賢遺臣さかしのこりのおみの名を授けました。

十月 山背やましろ栗隈縣くるくまのあがたに大溝を掘って、田を潤したので、その土地の人々は毎年豊かになりました。

 原 文

十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗國貢鐵盾・鐵的。八月庚子朔己酉、饗高麗客於朝。是日、集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得射通的、唯的臣祖盾人宿禰射鐵的而通焉、時高麗客等見之、畏其射之勝工、共起以拜朝。明日、美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰、同日、小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣。賢遺、此云左舸能莒里。冬十月、掘大溝於山背栗隈縣、以潤田、是以、其百姓毎年豐之。

 ひとことメモ

的戸田宿禰

古事記の孝元天皇の段に「的氏は葛城長江曾都毘古かつらぎのながえのそつひこの子孫」とあり、『新撰姓氏録』の山城皇別にも、「的臣 石川朝臣同祖 彦太忍信命ひこふつおしのまことのみこと三世孫葛城襲津彦かつらぎのそつひこ之後也」となっています。

的戸田宿禰いくはのとだのすくねはのちに、賢遺臣さかしのこりのおみのとともに、新羅へ赴くことになります。

 

河内平野の開発

仁徳13年 乙酉(きのとのとり) 325

九月 茨田屯倉まむたのみやけを造り、舂米部つきしねべを定められました。

十月 和珥池わにのいけを造りました。

同月 横野堤よこののつつみを築きました。

仁徳14年 丙戌(ひのえのいぬ) 326

十一月 猪甘津ゐかひのつに橋を造りました。それを小橋おはしといいます。

この年、京の中に大通りを作りました。南門から真っすぐ丹比邑たじひのむらまで至る大通りです。

また、感玖こむくに大溝を掘削し、石川の水を引いて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四か所の野を潤し、開墾して、四万しろあまりの田を開墾しました。これにより、その土地の人民は、大層豊かになり、凶年でも心配がなくなりました。

 原 文

十三年秋九月、始立茨田屯倉、因定舂米部。冬十月、造和珥池。是月、築横野堤。

十四年冬十一月、爲橋於猪甘津、卽號其處曰小橋也。是歲、作大道置於京中、自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖、乃引石河水而潤上鈴鹿・下鈴鹿・上豐浦・下豐浦四處郊原、以墾之得四萬餘頃之田。故、其處百姓、寛饒之無凶年之患。

 ひとことメモ

河内平野の治水工事が完成し、いよいよ農地開発や街道整備に取り掛かることになります。

茨田屯倉

茨田の屯倉の場所について、一般的には交野市に三宅という地名があることから、天の川流域のどこかにあったとされていますが、ここは治水工事の恩恵を受けるような場所ではありません。

おそらくは、屯倉はあったでしょう。がしかし、ここを茨田の屯倉と呼ぶには根拠が薄いようです。

むしろ、茨田という地名を持ち、茨田堤の恩恵を受けた、古川と寝屋川にはさまれた低湿地帯の方が相応しいと考えます。

マップに示した範囲は、それが屯倉の面積という意味でははく、この中のどこかにあったんじゃないかと思う、という意味ですので!

舂米部

舂米部つきしねべは、文字通り「米をく部民」です。いわゆる「脱穀係」です。専ら脱穀を仕事とした部民が作られるとは、とても細分化された分業体制だったようですね。

和珥池

和珥池の場所は定かではありませんが、、、

1801年の河内名所図会に美具久留御魂みぐくるみたま神社は喜志村和爾の池の西にあり、一名・和爾神社 今下水分神社と称す」とあり、やはり河内喜志村にあったという説が一般的でしょうか。

ということで、今の粟ケ池に比定されることが多いです

横野堤

大阪府大阪市生野区巽西に横野神社跡があり、横野堤の守護神ではないかとされています。

横野堤の場所は不明ですが、江戸時代中期に畿内の式内社の比定を行った並河誠所による考証の結果、大阪府大阪市生野区巽西の「横野神社」付近と考えられるようになったそうです。

この地は、堀江による排水が完了までは、平野川が河内湖にそそぐ河口付近に位置していて、低湿地帯だったと思われます。平野川の東側への洪水を防ぎ、農地開拓を行ったのでしょう。

小橋

上町台地の東辺に沿って北上する百済川(平野川)が河内湖にそそぐ河口呼は、物流拠点として栄えていました。そこを猪甘津いかいのつと呼びました。それは、このあたりで渡来人たちが豚を飼っていたからだとか。

そして、その河口の手前の百済川に橋を架けました。それを小橋といいます。また猪甘津橋いかいつのはしとも。

江戸時代、この橋に鶴が飛来するようになり、「つるの橋」と呼ばれるようになったのが、地名の「鶴橋」の由来といいます。

丹比邑

角川地名大辞典によると、「丹比邑は美原町多治井・丹上付近から羽曳野市河原城・郡戸付近および松原市の一部」とのことですが、私的には、もっと広いエリアだったかもしれないと思っております。少し北にはずれた上田というところに、反正天皇の丹比柴離宮がありますし。

大道

定説では、

大阪城南にある孝徳・天武の宮が発掘された難波宮跡に難波高津宮があったとして、その南門から上町台地を南へ南へ真っすぐ降り、長居公園を突き抜けて、今池治水公園も突き抜けて、大泉緑地公園の南西角で竹内街道と交わり、竹内街道が丹比邑につながる。

というルートだろうと言われいます。

しかし、「自南門直指之至丹比邑」の「直指」を ”真っすぐ” とか ”直接” と捉え、「回り道せず」と理解したとき、この定説ルートはかなりの回り道であることに気が付きます。

今後の発掘調査が待たれるところです。

感玖

感玖こむく」は「和名抄」における河内国石川郡紺口こむくに比定されていて、今の大阪府南河内郡河南町から千早赤阪村のあたりとされます。

そして、感玖こむく大溝は古市ふるいち大溝に比定されています。参考までに、古市ふるいち大溝の水路をMAP上に描いておきます。

4つの野

感玖こむく大溝によって、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の4つの邑が潤ったとあります。鈴鹿は不明で、豊浦は東大阪市の豊浦町に比定されるとのこと。でも、これはおかしいですよね。

石川から引いた用水路が、はるか北20kmの、しかも大和川の支流を何本も横切り、大和川水系の東側の豊浦を潤す?これは無いでしょう。

別の伝承が混在したのかもしれないですね。

感玖こむく大溝=古市ふるいち大溝であれば、この4邑は古市古墳群周辺と考えるのが自然だと思います。

 

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