日本書紀|第十六代 仁徳天皇①|皇位の譲り合い

大鷦鷯天皇 -おほさざきのすめらみこと-

第十六代  仁徳天皇 -にんとくてんのう-

 

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仁徳天皇の人となり

大鷦鷯天皇おほさざきのすめらみこと(仁徳天皇)は誉田天皇ほむたのすめらみこと(応神天皇)の第四子です。母は仲姫命なかつひめのみことと申し上げ、五百城入彦皇子いおきいりびこのみこの孫です。

天皇は、幼い頃から聡明で叡智にあふれ容姿も美しく、壮年になると思いやりや優しさを持つ立派な人となりました。

 原 文

大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也。母曰仲姫命、五百城入彦皇子之孫也。

天皇、幼而聰明叡智、貌容美麗、及壯仁寛慈惠。

 ひとことメモ

仲姫命

五百城入彦皇子のお孫さんとあります。五百城入彦皇子は12代景行天皇の皇子ですので、仲姫命は景行天皇の曾孫にあたります。

五百城入彦皇子の男兄弟は72人ほどいたらしいですが、景行天皇が手許に置いたのは、皇太子だった日本武尊、成務天皇、五百城入彦皇子のたったの3人でした。

とても特別な皇子だったのです。

そのお孫さんですから、仲姫命を娶ることは、かなりのステータスだったのではないかと想像します。

 

皇位を譲り合う兄弟

応神天皇四十一年(310年)

春二月 誉田天皇が崩御されました。

皇太子の菟道稚郎子うじのいらつこは皇位を大鷦鷯尊おおきささぎのみことに譲ろうとされて、皇位に就かれませんでした。

そして、大鷦鷯尊に

「天下の君主として万民を治める者は、天の如く蓋となって守り、大地の如く受け入れる寛容さが必要です。

して喜ぶ心をもって百姓おおみたからを使えば、百姓おおみたからは喜んで働きますから、おのずと天下は安泰となります。

今、私は弟で、なおかつ智識が足りません。どうして皇位を継いで天皇としての仕事ができましょうか。

大王(仁徳天皇)は、威風堂々として、その仁と孝は遠くにまで聞こえ、歯が長く(長く生きている:年上の意)、まさに天下の君主となるに足る人です。

先帝は、私を太子としましたが、才能があったからではなく、ただ単に愛していただけです。国家運営は重大な仕事ですから、私などではとてもとても、無理です。

兄が上で弟は下、聖人は君となり愚人は臣となる。これが、古今の道理です。どうか、王は疑うことなく皇位におつきになって下さい。私は臣としてお助けいたします。」

と、かさねて相談しました。

それに対して大鷦鷯尊は、

「先皇は、皇位は一日たりとも空けてはならないとおっしゃいました。

それゆえに、あらかじめ正しく公明な人を選んで皇太子とし、後継者の位を与えて人民を授けましたし、その寵愛の証は全国に聞こえています。

私がいかに不肖だといえども、先帝の命令を破棄して、弟の願いに従うなどできましょうか。」

と申し上げて、皇位に就くことを固辞して、お互いに譲り合いました。

 原 文

卌一年春二月、譽田天皇崩。時太子菟道稚郎子、讓位于大鷦鷯尊、未卽帝位、仍諮大鷦鷯尊「夫君天下以治萬民者、蓋之如天、容之如地。上有驩心以使百姓、百姓欣然天下安矣。今我也弟之、且文獻不足、何敢繼嗣位登天業乎。大王者、風姿岐嶷、仁孝遠聆、以齒且長、足爲天下之君。其先帝立我爲太子、豈有能才乎、唯愛之者也。亦奉宗廟社稷重事也、僕之不侫、不足以稱。夫昆上而季下・聖君而愚臣、古今之常典焉。願、王勿疑、須卽帝位、我則爲臣之助耳。」

大鷦鷯尊對言「先皇謂、皇位者一日之不可空。故、預選明德立王爲貳、祚之以嗣・授之以民、崇其寵章令聞於國。我雖不賢、豈棄先帝之命、輙從弟王之願乎。」固辭不承、各相讓之。

 ひとことメモ

皇位を譲る理由

菟道稚郎子は、大鷦鷯尊に皇位を譲る理由を以下のように挙げました。

  • 国をおさめる君主たるのも、徳が無ければならない。(徳治主義)
  • 自分は弟、貴方は弟(上下秩序の弁別)

そして、

  • 貴方は兄であり徳がある。私は弟であり徳がない。(徳治主義)
  • それを悟った私は、貴方に自ら皇位を譲る。(禅譲)(易姓革命)

これ、まさに儒教の思想そのものなんですね。

第二子ルールはどうなる?

このように、太子の位を授かった菟道稚郎子と、政務を任された兄の大鷦鷯尊とが、皇位を譲り合ったわけですが、以前にも述べたように、大王家のルールとして、第一子は国家の祭祀を司り、第二子が皇位を継承するというルールがあったとの説があります。

そのルールを適用した場合、本来の皇位継承者は大山守皇子です。儒教を極めた菟道稚郎子が皇位を譲るべき相手は、大山守皇子なのではないでしょうか。上下秩序の弁別と大王家の慣習に当てはめると、そうなりますよね。

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