日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑩|磐之媛皇后が激怒し、山背へ隠れる
皇后、怒る!
仁徳30年 壬寅(みずのえのとら) 342
九月十一日 皇后は紀国にお出かけになり、熊野岬に着かれ、そこで御綱葉を取って戻られました。
この時、天皇は皇后の不在を伺って、八田皇女を娶って宮中に入れられました。
皇后は難波済に戻られた時に、天皇が八田皇女と合ったことをお聞きになり、天皇を恨まれ、御綱葉を海に投げ入れて、岸に泊まりませんでした。ゆえに、時の人は、この葉を散らした海を葉済と呼びました。
しかし、天皇は、皇后が怒って着岸しなかったことをご存じなく、大津に出向かれて、皇后の船を待ちました。そして、詠まれた歌は、
なにはひと すずふねとらせ こしなづみ そのふねとらせ おほみふねとれ 難波人 鈴船取らせ 腰なづみ 其の船取らせ 大御船取れ 難波の人よ、鈴を付けた船を引け 腰まで浸かって その船を引け 大御船を引け |
原 文
卅年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊行紀國、到熊野岬、卽取其處之御綱葉葉、此云箇始婆而還。於是天皇、伺皇后不在而娶八田皇女、納於宮中。時皇后到難波濟、聞天皇合八田皇女而大恨之、則其所採御綱葉投於海而不著岸、故時人號散葉之海曰葉濟也。爰天皇、不知皇后忿不著岸、親幸大津待皇后之船而歌曰、
那珥波譬苔 須儒赴泥苔羅齊 許辭那豆瀰 曾能赴尼苔羅齊 於朋瀰赴泥苔禮 |
ひとことメモ
御綱葉
御綱葉は、ウコギ科の常緑小高木「カクレミノ」の葉という説がありますが、確証はないです。
「かしは」は、神に供える食べ物を盛りつけるものとして使われました。お皿の代わりです。
秋に紀国へ取りに行ったということは、新嘗祭につかう「かしは」だったのでしょうかね。
難波済
難波済(=葉済)場所は、わかっていません。淀川河口にいくつもあったであろう渡しのどこかでしょう。根拠があるのかないのかわかりませんが、江戸時代の摂津名所図会には「今の野里の渡しである」と記載されています。
ですので、大阪市西淀川区野里1-20-14のタバコ屋さんの前に「野里の渡し跡」の石碑があったり、野里住吉神社境内にも「野里の渡し」の顕彰碑が立ちます。
皇后、宮に帰らず
しかし、皇后は大津には泊まらず、引き返して、川を遡って、山背から回って倭に向かわれました。
翌日、天皇は舍人の鳥山を遣わして、皇后に帰ってもらうために、贈られた歌
やましろに いしけとりやま いしけしけ あがもふつまに いしきあはむかも 山背に い及け鳥山 い及け及け 我が思う妻に い及き会はむかも 山背に早く追いつけ鳥山よ 早く追いつけ急いで追いつけ 私の愛する妻に追いついて 会えるだろうか |
皇后は、お戻りにならずに、なおも進んで、山背河(木津川)で詠まれた歌
つぎねふ やましろがはを かはのぼり わがのぼれば かはくまに たちさかゆる ももたらず やそばのきは おほきみろかも つぎねふや 山背川を 川上り 我が上れば 川隅に 立ち栄ゆる 百足らず 八十葉の木は 大君ろかも 山背川をさかのぼって行くと、私がさかのぼって行くと、川の曲がる所に立派に立っている木、豊かに茂っている木は、我が大君のようです |
原 文
時皇后、不泊于大津、更引之泝江、自山背而向倭。明日、天皇遣舍人鳥山令還皇后、乃歌之曰、
夜莽之呂珥 伊辭鶏苔利夜莽 伊辭鶏之鶏 阿餓茂赴菟摩珥 伊辭枳阿波牟伽茂 皇后、不還猶行之、至山背河而歌曰、 菟藝泥赴 揶莽之呂餓波烏 箇破能朋利 涴餓能朋例麼 箇波區莽珥 多知瑳介踰屢 毛々多羅儒 揶素麼能紀破 於朋耆瀰呂介茂 |
ひとことメモ
難波から山背へ
難波の津から河内湖に入り、古川か寝屋川を遡って淀川へ出て、男山から木津川に入る。というルートを想像します。
そして、木津川の泉あたりで船を降り、陸路でもって南下すると、そこは国境の平城山です。これを越えて大和国に向かったんでしょう。
ちなみに、この京都と奈良の国境に「国境食堂」という食堂がありました。今もあるようです。奈良坂町でしょうか。20代の頃、よく行ってました。注文は毎回同じ「とんかつ定食」の「大」。
普通のとんかつの3倍ぐらいの量はあるでしょうか。えげつなく高カロリーですが、若い胃袋にはちょうど良かったんです。
望郷の歌
更に、那羅山を越えたところで、葛城を望んで詠まれた歌
つぎねふ やましろがはを みやのぼり わがのぼれば あをによし ならをすぎ をだて やまとをすぎ わがみがほしくには かづらきたかみや わぎへのあたり つぎねふや 山背川を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり 山背川を遡り、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、私が見たいと思う国は、葛城の高宮 我が家の辺りです |
皇后は、そこから山背に引き返して、筒城岡の南に宮室を作って住まわれました。
原 文
卽越那羅山、望葛城歌之曰、
菟藝泥赴 揶莽之呂餓波烏 瀰揶能朋利 和餓能朋例麼 阿烏珥豫辭 儺羅烏輸疑 烏陀氐 夜莽苔烏輸疑 和餓瀰餓朋辭區珥波 箇豆羅紀多伽瀰揶 和藝弊能阿多利 更還山背、興宮室於筒城岡南而居之。 |
ひとことメモ
葛城を望んで歌を詠む
故郷を偲んで歌を詠みます。「帰りたいと思うが帰らない。」という内容ですよね。
となると、疑問が湧いてきます。
- 何故に葛城に帰らなかったのか。
- わざわざ山背まわりを選択したのは何故か。
仁徳天皇は遂に、八田皇女を妃にしました。嫉妬だけなら、「私、実家に帰らせていただきます!んで、お父さんに言いつけてやります!怖いですよ!」で終わりますよね。
さて、八田皇女は、かつて仁徳天皇が殺した政敵(菟道稚郎子)の娘であり、その母親は和珥氏の出身でした。
そんな皇女をなんとしても娶りたかったその狙いは、宇治勢力の取り込み、あるいは内外へのアピールでしょう。
この時、宇治勢力と仁徳天皇との関係が、既に主従の関係に収まっていたならば問題はないのですが、どうやそうではなかったと思われます。虎視眈々と仁徳政権の転覆のチャンスを伺っていたようです。
それは、この後に登場する「隼別皇子の反乱」で明らかです。
となれば、今のところは、宇治勢力を監視・牽制しておく必要がありますよね。
筒城岡の宮
筒城宮は、京都府京田辺市多々羅都谷にあったとされます。今の同志社大学田辺キャンパスの正門あたりです。
この筒城宮の立地は、宇治勢力並びに和珥氏との緊張状態の中において、両勢力を牽制するに相応しい場所に見えてくるのです。
というのも、木津川の水利権を掌握することができ、多田羅という地名からもわかる通り、製鉄に係る部族が住まいしていたエリアでもありますから武器製造も可能。そして水路で難波宮ともつながっています。
磐之媛命は、天皇のために、そして実家の葛城氏のために、政権抗争の最前線に布陣したように思えてなりません。
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