日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑪|帰らない皇后、山背にて薨る
口持臣が遣わされたが、、、
十月一日 天皇は、的臣の祖の口持臣を遣わして、皇后を呼び戻しました。一説には、和珥臣の祖の口子臣とも。
口持臣は、筒城宮(つつきのみや)に行き、皇后にお目にかかりましたが、皇后は黙して返事もされず。。。
口持臣は、雪雨に濡れながらも、昼夜を通して、皇后の御殿の前で伏して去りませんでした。
口持臣の妹の国依媛が皇后にお仕えしており、ちょうどこの時、国依媛は皇后の御側にいました。兄の口持臣が雨に濡れているのを見て、涙を流しながら詠んだ歌、
やましろの つつきのみやに ものまをす わがせをみれば なみたぐましも 山背の 筒城宮に 物申す 我が兄を見れば 涙ぐましも 山背の筒城宮で、天皇の御歌を伝えている 我が兄を見ていると、涙がこみあげてきます |
皇后は国依媛に
「どうして泣いているのか。」
と訊ねられました。国依媛は
「今、庭で伏して謁見を願っているのは、私の兄なのです。雨に濡れながらも去らずに、なおも謁見を願っております。それを見ていると、それで悲しくて泣いているのです。」
とお答えしました。これを聞かれて、皇后は国依媛に
「お前の兄に早く帰るよう告げなさい。私は絶対に帰りませんからね。」
とおっしゃいました。そこで、口持臣はすぐに戻り、天皇に報告しました。
原 文
冬十月甲申朔、遣的臣祖口持臣喚皇后。一云、和珥臣祖口子臣。爰口持臣、至筒城宮、雖謁皇后、而默之不答。時口持臣沾雪雨、以經日夜伏于皇后殿前而不避。於是、口持臣之妹國依媛、仕于皇后、適是時、侍皇后之側。見其兄沾雨而流涕之歌曰、
揶莽辭呂能 菟々紀能瀰揶珥 茂能莽烏輸 和餓齊烏瀰例麼 那瀰多遇摩辭 時皇后謂國依媛曰「何爾泣之。」對言「今伏庭請謁者、妾兄也。沾雨不避、猶伏將謁。是以、泣悲耳。」時皇后謂之曰「告汝兄令速還、吾遂不返焉。」口持則返之、復奏于天皇。 |
ひとことメモ
的臣の祖の口持臣
的臣は、古事記によると葛城長江曾都毘古の子孫。新撰姓氏録でも葛城襲津彦の子孫となっています。
口持臣は、そんな的氏の祖なわけですから、葛城氏の系譜の中にでも、そこそこ葛城襲津彦に近い関係性があったのではないでしょうか。
だから、磐之媛の説得係として選ばれた。と思われます。
しかし、別伝で「和珥臣の祖の口子臣とも伝わる」などと記載されています。よくわかりません。
天皇みずからお迎えに、、、
十一月七日 天皇は船で山背に御幸されました。その時、桑の枝が流れてきました。天皇が桑の枝をご覧になって読まれた歌、
つのさはふ いはのひめが おほろかに きこさぬ うらぐはのき よるましじき かはのくまぐま よろほひゆくかも うらぐはのき つのさはふ 磐之媛が おほろかに 聞さぬ 末桑の木 寄るましじき 川の隈々 寄よろほひ行くかも 末桑の木 磐之媛は、そう簡単には、お聞き入れにならない。だから、末桑の木は、あちこちの川の曲がり角に寄っては流れ、あちこち寄り道しながら流れていくのだ この末桑の木は |
明日、天皇の御輿が筒城宮にお着きになり、皇后をお呼びになりましたが、皇后はお会いになりませんでした。そのとき天皇が詠まれた歌
つぎねふ やましろめの こくはもち うちしおほね さわさわに ながいへせこそ うちわたす やがはえなす きいりまゐくれ つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ 打ち渡す やがはえなす(八が栄えなす) 来入り参来れ 山背女が木の桑で掘り起こした大根 その葉がざわわざわわとざわつくように あなたがざわざわと言うから 向こうの木が大変よく茂っているように 大勢で連れ添って、せっかくやって来たのに |
また歌われて
つぎねふ やましろめの こくはもち うちしおほね ねじろの しろただむき まかずけばこそ しらずともいはめ つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の 白腕 巻かずけばこそ 知らずとも言はめ 山背女が木の鍬で畑を耕して作った大根 その真っ白な根 そんな白い腕を巻きあったことがなかったなら 私を知らないとも言えようが |
そのとき皇后は、使いを出して奏上させて
「陛下は、八田皇女を妃として宮中にいれました。私は皇女を副えて、皇后として勤めようとは思いません。」
と伝えて、遂に会うことはなく、天皇の車は宮へと帰りました。
天皇は皇后を大変恨みましたが、それでもなお、恋しく思っておられました。
原 文
十一月甲寅朔庚申、天皇浮江幸山背。時桑枝沿水而流之。天皇視桑枝歌之曰、
菟怒瑳破赴 以破能臂謎餓 飫朋呂伽珥 枳許瑳怒 于羅遇破能紀 豫屢麻志枳 箇破能區莽愚莽 豫呂朋譬喩玖伽茂 于羅愚破能紀 明日、乘輿詣于筒城宮、喚皇后、皇后不肯參見。時天皇歌曰、 菟藝埿赴 揶摩之呂謎能 許久波茂知 于智辭於朋泥 佐和佐和珥 儺餓伊弊齊虛曾 于知和多須 椰餓波曳儺須 企以利摩韋區例 亦歌曰、 菟藝埿赴 夜莽之呂謎能 許玖波茂知 于智辭於朋泥 泥士漏能 辭漏多娜武枳 摩箇儒鶏麼虛曾 辭羅儒等茂伊波梅 時皇后令奏言「陛下納八田皇女爲妃、其不欲副皇女而爲后。」遂不奉見、乃車駕還宮。天皇於是、恨皇后大忿、而猶有戀思。 |
ひとことメモ
特に、ございませんです。
立太子、皇后の死
仁徳31年 癸卯(みずのとのう) 343
正月十五日 大兄去来穂別尊(履中天皇)を皇太子にされました。
仁徳35年 丁未(ひのとのひつじ) 347
六月 皇后磐之媛命が筒城宮(つつきのみや)で薨去されました。
仁徳37年 己酉(つちのとのとり) 349
十一月十二日 皇后を乃羅山(ならのやま)に埋葬しました。
原 文
卅一年春正月癸丑朔丁卯、立大兄去來穗別尊、爲皇太子。
卅五年夏六月、皇后磐之媛命、薨於筒城宮。 卅七年冬十一月甲戌朔乙酉、葬皇后於乃羅山。 |
ひとことメモ
立大兄去来穂別尊の立太子
17代履中天皇になる人です。仁徳天皇の第一皇子でした。
第一皇子が後継ぎになることは、今では当たり前のように思いますが、古代の大王家では第二子が後継ぎになることが慣例となっていたようで、第一子は国家祭祀を司る聖人となるのが常だったようです。
ところが、応神天皇の即位あたりから様子が変わってきます。
応神天皇は仲哀天皇の第三子で、次の仁徳天皇は応神天皇の第三子です。
そして、仲哀天皇の第二子の忍熊皇子は反乱を起こし、応神天皇の第二子の大山守皇子も反乱を起こしました。
古代からのルールが薄れてきて、儒教の思想が定着して第一子相続が当たり前になるまでの端境期に起こった悲劇ですね。
さて、第一子の立大兄去来穂別尊が立太子しました。第二子の住吉仲皇子はどうするのでしょうな。
磐之媛の陵
は、奈良県奈良市佐紀町にあるヒシアゲ古墳が、平城坂上陵として磐之媛命の陵に治定されています。実際の被葬者は不明らしいですが。
墳長219mの前方後円墳で全国24位の規模。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つです。
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