日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑫|兎餓野の鹿

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兎餓野の鹿

仁徳38年 庚戌(かのえのいぬ) 350

正月六日 八田皇女やたのひめみこを皇后に立てました。

七月 天皇と皇后とが高殿で暑を避けておられたとき、毎夜、菟餓野とがのから鹿の鳴き声が、どこか寂しそうな悲しそうに聞こえて、共に可哀想にお思いになられていました。

ところが月末、鹿の鳴き声がしなくなり、天皇は皇后に、

「今宵は、鹿が鳴かぬが、なにゆえかのぅ?」

とおっしゃいました。

翌日、猪名縣いなのあがたの佐伯部が贈り物を献上しました。

天皇は、膳夫かしわでに、

「その贈り物はなんじゃ?」

と尋ねられました。

「牡鹿でございます。」

「どこの鹿じゃ?」

「兎我野でございます。」

「・・・・・」

この時天皇は、この贈り物はきっとあの鳴いていた鹿だろうと思いました。

天皇は皇后に、

「朕、少しく思い悩むことがあったが、鹿の鳴き声を聞いて慰められていたのじゃ。今、佐伯部が獲った日時と場所から推察するに、おそらくはあの鹿であろう。

その者は、朕が愛しておったとは知らずに、ちょうど出くわしたから獲ったのであろうが、どうしても恨めしく思ってしまう。よって、佐伯部を皇居の近くには置きたくない。」

とおっしゃって、役人に命じて安芸の渟田へ移封しました。これが現在の渟田の佐伯部の祖です。

 原 文

卅八年春正月癸酉朔戊寅、立八田皇女爲皇后。秋七月、天皇與皇后、居高臺而避暑。時毎夜、自菟餓野、有聞鹿鳴、其聲寥亮而悲之、共起可怜之情。及月盡、以鹿鳴不聆、爰天皇語皇后曰「當是夕而鹿不鳴、其何由焉。」明日、猪名縣佐伯部、獻苞苴。天皇令膳夫以問曰「其苞苴何物也。」對言「牡鹿也。」問之「何處鹿也。」曰「菟餓野。」時天皇以爲、是苞苴者必其鳴鹿也、因語皇后曰「朕、比有懷抱、聞鹿聲而慰之。今推佐伯部獲鹿之日夜及山野、卽當鳴鹿。其人、雖不知朕之愛以適逢獮獲、猶不得已而有恨。故、佐伯部不欲近於皇居。」乃令有司、移鄕于安藝渟田、此今渟田佐伯部之祖也。

 ひとことメモ

兎餓野

兎餓野とがのがどこなのか。これがなかなか難しいのです。

一般的には梅田から東へ少し行ったところの「兎我野町とがのちょう」だと言われていますが、神戸の夢野も有力な候補となっています。

天皇と皇后が避暑のために高台で過ごしたとあります。上町台地は避暑地としては標高が低すぎます。生駒山系か六甲山系かじゃないと避暑にはならない、、、

いずれにしても、梅田の兎我野町の鹿の声は聞こえないでしょう。

ですので、梅田の兎我野町では???となるのです。

猪名県

猪名県いなのあがたは、今の吹田から尼崎にかけてのエリアにあった古代の県。北摂地域ですね。

ここの佐伯部が兎餓野の鹿を獲ったということですから、獲った場所は猪名県内である可能性が高いと思われます。

となれば、やはり梅田の兎我野町?

佐伯部

12代景行天皇の御代、日本武尊が東征した時に平定して捕虜とした蝦夷えみし(北関東から東北のヤマト朝廷に従わない人たち)を、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か所に分散して住まわせたのが、佐伯部の祖であると伝わります。

ですから、この佐伯部の人は、播磨の佐伯部の人だと思われます。

となれば、夢野で狩りをしてもおかしくないか。

 

菟餓の鹿

土地の人に、こんな伝承があります。

昔、ある人が菟餓とがのに行き、そこで野宿をしていました。

その時、二頭の鹿がそばで臥していましたが、夜が明けるころ、牡鹿が牝鹿に言いました。

「昨日夢を見た。白い霜がたくさん降ってきて、私の体は覆いつくされてしまった。これは、何の前触れだろうか」

牝鹿は、

「あなたが出て行くと、必ず人に見つかって射られて死んでしまう。白塩を体に塗られるということが、白い霜が身を覆うのと同じことなのですよ。」

と答えました。

野宿していた人は不思議に思いました。夜明け前、猟師がやって来て、その牡鹿を射殺しました。

そこで、時の人は諺に「鳴く鹿でもないのに、夢の通りになる」というようになりました。

 原 文

俗曰「昔有一人、往菟餓、宿于野中。時二鹿臥傍、將及鶏鳴、牝鹿謂牝鹿曰『吾今夜夢之、白霜多降之覆吾身。是何祥焉。』牝鹿答曰『汝之出行、必爲人見射而死。卽以白鹽塗其身、如霜素之應也。』時宿人、心裏異之。未及昧爽、有獵人、以射牡鹿而殺。」是以、時人諺曰「鳴牡鹿矣、隨相夢也。

 ひとことメモ

先ほどの天皇の御気に入りの鹿の話と、この話が、同じ場所を指すとも限らないのですが、同じ場所だとすると、俄然、神戸夢野が有力になってきます。

というのも、同じ逸話が摂津国風土記にも掲載されていて、そこでは「此の野を名づけて夢野と曰ふ」と締め括られていますので。

 

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