田道の新羅攻め
仁徳53年 乙丑(きのとのうし) 365
新羅が朝貢してきませんでした。
五月 上毛野君の祖の竹葉瀬に命じて、朝貢しない理由を問わせました。
向かう途中で、白鹿を獲ったので、引き返して天皇に献上しました。
日を改めて出発させ、しばらくしてから、竹葉瀬の弟の田道も重ねて派遣し
「もし、新羅が抵抗すれば、兵を挙げて討て。」
と詔され、精兵を授けました。
新羅は兵を起こして抵抗しました。新羅軍は毎日挑戦してきましたが、田道は砦を固めて出て行きませんでした。この時に新羅軍の兵一人が、陣営の外に出てきました、すぐに捕らえて敵軍の状況を問いました。
「百衝という強者がおり、身軽な上に勇猛です。いつも軍の右前鋒にいますので、左から攻め込めば敗れるでしょう。」
この時、新羅軍は、左を空けて、右に備えていました。田道は、その新羅軍の状況を見定めて、精鋭騎馬部隊を連ねて、その左を攻撃しました。新羅軍の陣形が崩れたので、これに乗じて思うままに攻めて数百人を殺し、四つの邑の人民を捕虜にして連れて帰りました。
原 文
十三年、新羅不朝貢。夏五月、遣上毛野君祖竹葉瀬、令問其闕貢。是道路之間獲白鹿、乃還之獻于天皇。更改日而行、俄且重遣竹葉瀬之弟田道、則詔之日「若新羅距者、舉兵擊之。」仍授精兵。新羅起兵而距之、爰新羅人日々挑戰、田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外、則掠俘之、因問消息、對曰「有强力者、曰百衝、輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒、故伺之擊左則敗也。」時新羅空左備右、於是田道、連精騎擊其左。新羅軍潰之、因縱兵乘之殺數百人、卽虜四邑之人民以歸焉。 |
ひとことメモ
またまた新羅です。百済とはそれなりの関係性が築けているようですが、新羅は何度も何度も、叩いても叩いても反抗してきます。熊襲に似てますね。
上毛野君竹葉瀬
上毛野氏は、第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した氏族です。
ですから、竹葉瀬も皇族の血統をひく人です。多くの氏族の祖とされ、それらの氏族は皇別に分類されされていていました。
しかし、その多くの後裔のうち田辺史・上毛野公・池原朝臣・住吉朝臣の4氏は、実は百済からの渡来人であることがわかり、皇別から諸蕃に修正されたという記録があります。
皇別と見なされると昇格昇進が優遇されるというメリットがあったようで、各氏族は出来るだけ皇別になるよう、皇族の誰かに始祖を求めようとしたようですよ。
上毛野君田道
竹葉瀬の弟で、とても強い武将として描かれています。
明治政府が発行した1円札の初代の肖像画は、なんと、この「田道」でした。ご存知でした?
ちなみに、裏面は元寇。神風が吹いて敵軍がおぼれているシーンが描かれています。
死んでも仇を討つ田道
仁徳55年 丁卯(ひのとのう) 367
蝦夷が叛きました。そこで、田道を遣わして討たせましたが、蝦夷に敗れて、伊峙水門で戦死しました。
従者が田道の手纒を取って、妻に渡たしました。妻は、その手纒を抱いて縊死しました。時の人これを聞いて涙を流しました。
この後、蝦夷がまた襲って人民を略奪しました。そして、田道の墓を掘ると、そこに大蛇がいて、目をいからせて墓から飛び出してきて食いつきました。蝦夷は悉く蛇の毒を被り多くが死にました。助かったのはわずかに十二人でした。
ゆえに時の人は、
「田道は死んだとは言えど、ついに仇を討った。何んで死者は無知だと言えようか。」
と言いました。
原 文
五十五年、蝦夷叛之。遣田道令擊、則爲蝦夷所敗、以死于伊峙水門。時有從者、取得田道之手纏、與其妻。乃抱手纏而縊死、時人聞之流涕矣。是後、蝦夷亦襲之略人民、因以、掘田道墓、則有大蛇、發瞋目自墓出以咋、蝦夷悉被蛇毒而多死亡、唯一二人得兔耳。故時人云「田道雖既亡、遂報讎。何死人之無知耶。」 |
ひとことメモ
伊峙水門
伊峙水門の候補は2か所あります。
- 上総国夷灊郡(旧千葉県夷隅郡)説
- 陸奥国牡鹿郡石巻(現宮城県石巻市)説
田道の墓
青森県平川市猿賀にある猿賀神社の社伝では、
敗死した田道命は従者によって当地に埋葬され、後に蝦夷がその墓を暴いたところ、田道命の遺体が大蛇と化して毒気を吐いたので、人々が恐れて現在地の西方の猿賀野に祀ったのが創祇。 200年後、坂上田村麻呂が東北を平定したとき、元の墓の場所に祠を建てて祀ったのが創建。 |
と伝わっています。
となれば、素人目には、伊峙水門が千葉県夷隅郡では遠すぎると思うのですが、、、
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