日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑰|連理の木・白鳥陵守・官船
連理の木
仁徳58年 庚午(かのえのうま) 370
五月 荒陵の松林の南の道に、あっというまに二つの歷木が生えてきて、道を挟んで上の方が一つに合わさりました。
十月 呉国・高麗国が、並んで朝貢しました。
原 文
五十八年夏五月、當荒陵松林之南道、忽生兩歷木、挾路而末合。冬十月、吳國・高麗國、並朝貢。 |
ひとことメモ
連理の木
根とか幹は別々の木だけど、上の方の幹や枝が一つに合わさった木のことを、連理の木とか連理木とかといいます。
中国で,王者の徳によって太平の世が実現されたことを知らせる、祥瑞(めでたいしるし)の一つとされています。

祥瑞
さあ今ここに、連理の木が現れました。祥瑞です。よって目出度いことが起こります。
その目出度いことというのが、まさしく呉国と高麗国の朝貢なのでしょう。
呉と高麗という大国と友好関係になったのは、仁徳天皇の徳のお蔭だよということが言いたかったのでしょう。
白鳥陵の陵守
仁徳60年 壬申(みずのえのさる) 372
十月 白鳥陵守らを役丁にしようとしました。
天皇が自らその仕事場に行かれると、陵守の目杵が、たちまち白鹿になって逃げ去りました。
天皇は詔して
「この陵にはもともと空っぽであるからして、ここの陵守を役丁にしようと思ったのだが。今、この不思議な事を見るにつけ、はなはだもって畏れ多い。陵守は動かすまい。」
とおっしゃいました。
そして再び、陵守を土師連(はじのむらじ)らに授けました。
原 文
六十年冬十月、差白鳥陵守等、充役丁。時天皇親臨役所、爰陵守目杵、忽化白鹿以走。於是天皇詔之曰「是陵自本空、故、欲除其陵守而甫差役丁。今視是怪者、甚懼之。無動陵守者。」則且、授土師連等。 |
ひとことメモ
陵守と役丁
陵守は天皇や皇后の御陵の守衛の任を負う人のこと。世襲制でした。陵守になると、課役が免除されたようです。
役丁は、夫役で集められた人のことを指します。
よって、白鳥陵の陵守に、他の労働をさせようとしたということですね。
空っぽの陵
なぜ陵守を役丁に替えようと思ったか。それは白鳥陵が空っぽだからということでした。
空っぽってどういうこと?
景行天皇45年に、
然遂高翔上天、徒葬衣冠
そして遂に、白鳥は天上へと高く翔け上り、むなしくも衣服と冠だけが葬られました。 |
とあります。ですから、白鳥陵に遺体は埋葬されていないのです。だから空っぽだと。。。
これが一般的な解釈だと思います。
官船を造る
仁徳62年 甲戌(きのえのいぬ) 374
五月 遠江国の司が
「大きな樹が、大井河を流れてきて、河の曲がり角で止まりました。それは十囲で、根元部分は一つですが、先が二つに分かれています。」
と報告しました。
そこで、倭直の吾子籠を遣わして、船を造らせ、南海から、難波津まで運んで、御船としました。
原 文
六十二年夏五月、遠江國司表上言「有大樹、自大井河流之、停于河曲。其大十圍、本壹以末兩。」時遣倭直吾子籠、令造船而自南海運之、將來于難波津、以充御船也。 |
ひとことメモ
倭直の吾子籠
倭直の吾子籠は、仁徳天皇紀の始めの方で登場しました。
仁徳天皇の兄の額田大中彦皇子が、「倭屯倉と屯田は山守の土地だから自分が管理する」と、わけのわからんことを言い出したとき、「倭屯倉と屯田は、景行天皇の詔により、天皇だけが管理することのできる土地です」と証言した人です。
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