百舌鳥の耳原
仁徳67年 己卯(つちのとのう) 379
十月五日 河内の石津原にお出ましになり、陵地を定められました。
同月十八日 山陵を築き始めました。この日、鹿が野中から飛び出してきて、人夫たちの中に走りこんできて倒れて死にました。
突然の死に驚いて傷を探しておりますと、百舌鳥が鹿の耳から出てきて飛び去りました。耳の中を見ると、ことごとく喰い割られていました。その地を百舌鳥耳原というのは、これが由縁です。
原 文
六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河內石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、卽百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之緣也。 |
ひとことメモ
世界遺産に登録された、百舌鳥・古市古墳群の百舌鳥の地名説話です。
鹿は天皇に対する土地の精霊だったという説、耳は神への捧げものとするための印、百舌鳥は神の使いであるという説もあるようです。
吉備の大虬
この年 吉備の中国の川嶋河が分かれる所に大虬が住んでおり、人々を苦しめていました。道行く人がそこに触れると、その毒を被り、多くの人が死にました。
ここに、笠臣の祖の縣守という、勇敢で力の強い人が、その川俣の淵に近づき、三つの瓢箪を水に投げ入れて、
「おまえは毒を吐いて、多くの道行く人を苦しめてきた。よって、俺がおまえを殺す。おまえが、この瓢箪を沈めることができれば、俺はここから逃げよう。しかし、沈めることができなければ、お前を斬る。」
と言いました。
すると、水虬は鹿に化けて、瓢箪を引き入れようとしましたが、瓢箪は沈みませんでした。すぐに剣を挙げて水に入り、虬を斬りました。
さらに、仲間の虬を探すと、諸々の虬の一族が、川の底の穴々に満ちていました。これらを悉く斬ったので、河の水は血に変わりました。それで、その水を縣守淵を呼ぶのです。
このとき、妖気が少し動いて、謀反人が一人二人と起こり始めました。
そこで天皇は、朝早くから夜遅くまで仕事に励み、労役を軽く、また税金も減額することで民萌を緩め、徳を行き渡らせて恵みを施すことで困窮から救い、死者を弔い病人を見舞い、独居老人を養いました。
このようなことで、政令を実施して、天下は泰平となり、二十年余りを無事に過ごすことが出来ました。
原 文
是歲、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇捍而强力、臨派淵、以三全瓠投水曰「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」
時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。 當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寛民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。 |
ひとことメモ
虬
虬とは、伝説上の龍あるいは蛇的な生き物、あるいは水神とのこと。普通は蛟と書きますが、
ミズチのミは水、ツ(ズ)は「~の」、チは霊。すなわち、水の精霊ですね。いや、水の妖怪でしょうか。蛇のように長く、角があり、四つの足を持ち、毒気を吐いて人を殺すとも。となれば龍ですか。
それはそれとして、その大虬が河俣にいたということは、朝廷に従わない土蜘蛛が河川輸送を邪魔していたということなのでしょう。従わない土蜘蛛なので異形の描写となるわけです。
そして、それを笠臣の祖の県守という人が討伐したという話です。
川嶋・県守淵
その場所はといいますと、倉敷市酒津に「川嶋の宮八幡神社」という神社があります。こちらの由緒書に「川嶋には県守淵がある」とありますが、具体的な場所は不明です。
この神社がある八幡山は、高梁川と小田川が合流地点で、おそらくは海が深く切れ込んでいたと思われます。港に近い合流地点。まさに水運の要所です。
笠臣は、吉備武彦の子の鴨別の子孫です。
瓢箪と鹿
瓢箪は中を空洞にすると絶対に水に浮きます。だから、本物の神しか沈めることは出来ないのです。
大虬が鹿に化けました。また鹿です。
思えば、仁徳天皇紀には、鳥と鹿がよく出てきました。
- 兎我野の鹿が獲られて献上された話
- 竹葉瀬が新羅へ出兵の途中で白鹿を獲って献上した話
- 白鳥陵の陵守が白鹿になって去った話
- 百舌鳥が鹿の耳の中を食いちぎった話
だからどうということはないのですが、、、
仁徳天皇の崩御と御陵
仁徳87年 己亥(つちのとのゐ) 399
正月十六日 仁徳天皇が崩御されました。
十月七日 百舌鳥野陵に埋葬申し上げた。
原 文
八十七年春正月戊子朔癸卯、天皇崩。冬十月癸未朔己丑、葬于百舌鳥野陵。 |
ひとことメモ
百舌鳥野陵
百舌鳥野陵は、皆さんご存知の日本最大の前方後円墳であるところの大仙陵古墳に治定されています。
この大仙陵古墳、中高年の皆さんは仁徳天皇陵と習ったと思いますが、今はそうは習わないそうです。
というのも、ここが仁徳天皇の陵かどうかが微妙になった時期があったからだとか。仁徳天皇の陵である可能性の方が高そうでも、確定されていない以上、仁徳天皇陵と教科書に載せるのは良くないという、極めてまじめな日本人的な考え方によるものです。
日本書紀巻第十一 完
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