日本書紀|第十六代 仁徳天皇②|倭の屯田は誰のもの?
倭の屯田は山守のもの
額田大中彦皇子が倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田の司の出雲臣の祖の淤宇宿禰に、
「この屯田は、もともと山守の地である。しかし今からは私が治めることにする。よって、お前にの治めるところではない。」
と言われたので、淤宇宿禰はこの事を太子(菟道稚郎子)に報告すると、
「この件は大鷦鷯尊に申し上げなさい。」
とおっしゃっいました。
そこで、淤宇宿禰は大鷦鷯尊に、
「私めが管理を任されている屯田の件ですが、大中彦王子に邪魔されて治めることが出来ません。」
と申し上げました。
倭の屯田は、時の天皇のもの
大鷦鷯尊は倭直の祖の麻呂に、
「倭の屯田が、もともとは山守のものというが、どうなんだ?」
とお尋ねになられました。
「私めには判りかねます。ただ、弟の吾子籠なら知っています。」
とお答えしました。
しかし、この時には、吾子籠は韓国に遣わされていて、まだ帰国していませんでした。なので、大鷦鷯尊は淤宇に、
「ならば、お前が自ら韓国に行って、吾子籠を連れ戻せ。昼夜を無しに急いで行け。」
と命じられました。そして、淡路の海人80人を水手として差し向けました。
そしてここに淤宇は韓国へ行き、吾子籠を連れて帰ってきました。
倭の屯田の件を問うと、
「伝え聞くところでは、纒向玉城宮御宇天皇(崇神天皇)の御世に、太子の大足彦尊(景行天皇)にお命じになって、倭の屯田を定められたということです。
その時の勅は、すべての倭の屯田は、時の天皇の屯田であり、たとえ天皇の子といえども、時の天皇でなければ支配することはできないという内容でした。
ですから、山守の土地というのは間違いです。」
とお答えしました。
そこで、大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子に遣わし、その事情を説明させたところ、大中彦皇子は言うべき言葉がありませんでした。大鷦鷯尊は、その悪い事をお知りになりましたが、許して罰は与えられませんでした。
原 文
是時、額田大中彥皇子、將掌倭屯田及屯倉、而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰「是屯田者、自本山守地、是以、今吾將治矣。爾之不可掌。」時淤宇宿禰啓于太子、太子謂之曰「汝便啓大鷦鷯尊。」於是、淤宇宿禰啓大鷦鷯尊曰「臣所任屯田者、大中彥皇子距不令治。」大鷦鷯尊、問倭直祖麻呂曰「倭屯田者、元謂山守地、是如何。」對言「臣之不知、唯臣弟吾子籠知也。」
適是時、吾子籠、遣於韓國而未還。爰大鷦鷯尊、謂淤宇曰「爾躬往於韓國、以喚吾子籠。其兼日夜而急往。」乃差淡路之海人八十爲水手。爰淤宇、往于韓國、卽率吾子籠而來之。因問倭屯田、對言「傳聞之、於纏向玉城宮御宇天皇之世、科太子大足彥尊定倭屯田也。是時勅旨、凡倭屯田者毎御宇帝皇之屯田也、其雖帝皇之子、非御宇者、不得掌矣。是謂山守地非之也。」時大鷦鷯尊、遣吾子籠於額田大中彥皇子而令知狀。大中彥皇子、更無如何焉、乃知其惡而赦之勿罪。 |
ひとことメモ
山守の土地
山守とは?山守部なのか?大山守皇子のことなのか?
倭の屯倉や頓田が、一介の部民である山守部のものというのもおかしな話。やはりここは大山守皇子を指すのだと思います。
というのも、次節で「このことで恨みを増幅させた大山守が謀叛を起こす」という流れになってますので。
では、その土地が大山守皇子の土地だったと思っていた額田大中彦皇子が、「これからは私が治める」と言ったのは、どのような背景があったからでしょうか。
それはよくわからいのですが、いずれにしてもこの一件で、大山守皇子が倭の頓田を私物化しようとしていることがバレたということでしょう。
そうか、大山守皇子には徳がないんですね。だから菟道稚郎子は、徳のある兄の大鷦鷯尊に禅譲したとういう筋書きになるわけですね。
淤宇宿禰
淤宇は、意宇のことで、出雲国の意宇郡のことを指しますから、淤宇宿禰は、出雲国造のことだといいます。
出雲国造が倭の屯田司をしていたということですね。出雲国造であっても中央に出仕すれば頓田司ぐらいの地位なんですね。
吾子籠
吾子籠は倭国造の祖とあります。神武天皇の東征の際、その論功行賞で倭国造を拝命したのは椎根津彦でしたから、その流れの人でしょうか。となれば海人族でしょうね。
韓国に渡っていた、淡路の水手など、海人族を連想させる文章になってますし。
吾子籠は、この後にも、履中天皇・允恭天皇の御代に「倭直吾子籠」として登場し、さらに雄略天皇の御代には「大倭国造吾子籠宿祢」として登場します。姓が上がっていってますから、どんどん出世していったということですね。
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