日本書紀|第十六代 仁徳天皇④|太子の死、そして大鷦鷯尊の即位

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皇位の譲り合い

太子は、既に宮室(おほみや)を菟道に建てておられましたが、なおも皇位を大鷦鷯尊に譲ろうとされたため、皇位に就きませんでした。なので、皇位が空席のまま、既に三年が過ぎました。

この間に、海人が鮮魚の苞苴(にへ)を持ってきて、菟道宮に献上しました。

太子は、海人に

「私は天皇ではない。」

とおっしゃられて、難波に進呈させましたところ、大鷦鷯尊もまた返して、菟道に献上させました。

このように両者を往復するうちに、海人の献上品は往復するうちに腐ってしまいました。その為に代わりに他の新しい鮮魚を献上しましたが、以前と同じようになり、鮮魚はまた腐ってしまいました。

海人は、行ったり来たりが苦しくなり、鮮魚を棄てて泣いてしまいました。

諺に「海人でもないのに、自分の物が原因で泣く。」とあるのは、これが由縁です。

 原 文

既而、興宮室於菟道而居之、猶由讓位於大鷦鷯尊、以久不卽皇位。爰皇位空之、既經三載。時有海人、齎鮮魚之苞苴、獻于菟道宮也。太子令海人曰「我非天皇。」乃返之令進難波、大鷦鷯尊亦返、以令獻菟道。於是、海人之苞苴、鯘於往還。更返之、取他鮮魚而獻焉、讓如前日、鮮魚亦鯘。海人、苦於屢還、乃棄鮮魚而哭、故諺曰「有海人耶、因己物以泣。」其是之緣也。

 ひとことメモ

特になしです。

 

太子の死

太子は、

「私は、兄王の志を奪うことは不可能だと知った。どうして長く生きて、天下を煩わすことができようか。」

とおっしゃって、自死されました。

大鷦鷯尊は、太子が身罷ったと聞いて驚き、難波から大急ぎで、菟道宮に行きました。この時、すでに太子がお亡くなりになられてから三日が過ぎていました。

大鷦鷯尊は、胸を叩いて泣き叫び、なすすべもなく、髮を解いて遺体に跨り、三度呼んで、

「我が弟の皇子よ~!」

と叫ばれました。

すると、太子が生き返って、自ら起き上がられました。

大鷦鷯尊は太子に、

「悲しいのう、惜しいのう。なんで自ら死ぬのか。もし死者に知があるならば、先帝は我らをどのように思われるであろうか。」

とおっしゃいました。

すると太子は兄王に、

「これは天命です。誰も止めることなどできないのです。もし、父の応神天皇の御所に行くことができたならば、兄王は聖人であり、何度も皇位を譲ったと、申し上げましょう。

また、聖王(兄王)は、私が死んだとをお聞きになり、遠路はるばる馳せ参じてくださりました。どうして労わないでおられましょうや。」

と申され、同母妹の八田皇女(やたのひめみこ)を進めて、

「結納には足りませんが、掖庭の数に足してください。」

と申されて、棺に伏せ、お亡くなりになられました。大鷦鷯尊は、素服になり、大変悲しまれた。そして、菟道の山の上に埋葬申し上げました。

 原 文

太子曰「我知、不可奪兄王之志。豈久生之、煩天下乎。」乃自死焉。時大鷦鷯尊、聞太子薨以驚之、從難波馳之、到菟道宮、爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊、摽擗叨哭、不知所如、乃解髮跨屍、以三乎曰「我弟皇子。」乃應時而活、自起以居。爰大鷦鷯尊、語太子曰「悲兮、惜兮、何所以歟自逝之。若死者有知、先帝何謂我乎。」乃太子啓兄王曰「天命也、誰能留焉。若有向天皇之御所、具奏兄王聖之、且有讓矣。然聖王聞我死、以急馳遠路、豈得無勞乎。」乃進同母妹八田皇女曰「雖不足納采、僅充掖庭之數。」乃且伏棺而薨。於是大鷦鷯尊、素服爲之發哀哭之甚慟。仍葬於菟道山上。

 ひとことメモ

髪を解いて、、、

3日前に死んだ菟道稚郎子が、仁徳天皇の呼びかけで蘇りました。この時、天皇は髪を解いたと書かれていますよね。

ヒンドゥー教では髪には神様が宿るといわれています。あるいは、神にはその人の霊的な力が宿っているとも。仁徳天皇は髪に宿った自身の霊威で蘇らせたのです。

要するに、仁徳天皇は偉大なる霊力を持った、偉大なる天皇であった、ということが言いたいのでしょう。

八田皇女を献上する

また、蘇った菟道稚郎子は、仁徳天皇の立場を立てて聖人と評し、死んだ先帝にもあの世でちゃんと説明しておきましょうと言いました。

さらには、仁徳天皇が後に八田皇女を娶ることになるのは、菟道稚郎子の遺言によるものであることを証明しています。

という具合に、これでもかというぐらいに、くどいぐらいに、仁徳天皇の皇位継承の経緯を正当化しようとしているように思えてなりません。

となると、真実は逆で、仁徳天皇の皇位継承は正統な方法ではなかったのではないかと勘繰りたくなりますし、日本書記の編纂者は後の世の人に勘ぐって欲しかったのかも、とさえ思えてきます。

仁徳天皇即位

仁徳元年 癸酉(みずのとのとり) 313

正月三日 仁徳天皇が即位されました。(応神天皇の)皇后を尊んで皇太后をお呼びしました。

天皇は難波なにわに宮を造りました。これを高津宮たかつのみやといいます。

宮垣の室屋は白塗りをせず、垂木・梁・柱には飾りを付けず、茅を葺く時は端を切り揃えませんでした。これらは自分のためだけのことに人民の農耕や機織りの手を留めてはならないとしたからです。

 原 文

元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波、是謂高津宮、卽宮垣室屋弗堊色也、桷梁柱楹弗藻飾也、茅茨之蓋弗割齊也、此不以私曲之故留耕績之時者也。

 ひとことメモ

高津宮

大阪府大阪市中央区高津に、その名も「高津宮」という、仁徳天皇を祀る神社があります。

平安時代の866年、清和天皇の勅命で、仁徳天皇が造営した高津宮跡が探索されました。見つかったのでしょうかね。

そしてその時に、その場所に社殿が築かれました。その後、その社殿は、豊臣秀吉が大阪城築城の折に、現在地に遷されたとのこと。

ですから、今の「高津宮」の鎮座地は、仁徳天皇の難波高津宮があった場所ではないということになります。

では、どこだったのか。大阪城築城で移動させられたわけですから、大阪城の周辺にあったのでしょうが、はっきりとわかっていません。

いくつか候補はありますが、現在有力視されているのは、大阪城公園の南にある「難波宮跡」です。ここは、孝徳天皇の難波長柄豊崎宮と聖武天皇の難波宮が発見された場所です。

言い換えると、仁徳天皇の難波高津宮の跡地に、孝徳天皇が宮を作り、さらにその跡地に聖武天皇が宮を造ったということなりますね。

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