日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑥|竈の煙と聖帝

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民の竈の煙

仁徳4年 丙子(ひのえのね) 316

二月六日 群臣に詔して

「朕、高殿に昇って遠望したところ、人家の煙が立ち昇っていない。これは、人民が貧しく、米を炊くものがいないからであろう。

朕が聞くところでは、古(いにしえ)の聖王の御代には、人々は聖王の徳を褒め讃える声をあげ、家々には安泰の歌声があったという。

今、朕が万民に臨んで三年になるが、褒め讃える声は聞こえず、炊飯の煙はまばらになってしまった。

これすなわち、五穀が実らず、百姓が貧しくなっているからだ。さても。畿の內(都の内)でさえこの有様だから、畿外の諸国(都の外の国々)などはいかばかりか。」

とおっしゃいました。

 原 文

四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰「朕登高臺以遠望之、烟氣不起於域中、以爲、百姓既貧而家無炊者。朕聞、古聖王之世、人々誦詠德之音、毎家有康哉之歌。今朕臨億兆、於茲三年、頌音不聆、炊烟轉踈、卽知、五穀不登、百姓窮乏也。封畿之內、尚有不給者、況乎畿外諸國耶。」

 ひとことメモ

国見

仁徳天皇は、高殿に昇って下界を眺望しました。これを国見といいます。

国見は、国の支配権を象徴するとともに、国の地勢を観察したり、人民の生活状態を確認したり、古代大王の大切な仕事の一つです。

もともとは、1年の農事を始めるにあたって農耕に適した地を探し、秋の豊穣を祈る、農耕儀礼だったと思われます。

 

天皇の詔

三月二十一日 天皇は詔して、

「今より三年の間、すべての課役を免除し、人民の苦しみをやわらげよ。」

と詔(みことのり)されました。

この日から、天皇の礼服や履物は、破れない限り交換されず、温かいご飯や吸い物は、酸っぱくなるまで捨てず、節約の志に心を削り、行政の無駄をなくされました。

その為、宮垣が崩れても修理せず、屋根が壊れても葺き直さず、風雨が隙間から漏れて、御衣を濡らし、お部屋の中から星が見えるほどでした。

その後、天候も順調となり、五穀豊穣が続き、三年の間に百姓は豊かになり、天皇を褒め称える声が満ちあふれ、竈の煙もまた盛んになりました。

 原 文

三月己丑朔己酉、詔曰「自今以後至于三年、悉除課役、以息百姓之苦。」是日始之、黼衣絓履、不弊盡不更爲也、温飯煖羹、不酸鯘不易也、削心約志、以從事乎無爲。是以、宮垣崩而不造、茅茨壞以不葺、風雨入隙而沾衣被、星辰漏壞而露床蓐。是後、風雨順時、五穀豐穰、三稔之間、百姓富寛、頌德既滿、炊烟亦繁。

君は人民のためにあるのだ

仁徳7年 己卯(つちのとのう) 319

四月一日 天皇が高殿に上がって遠望されると、炊事の煙がたくさん立ち昇っていました。

この日 天皇は皇后に、

「朕は既に裕福になり、もう思い悩むこともあるまい。」

とおっしゃると、皇后が、

「どうして、裕福になったと言えましょうや。」

とお尋ねした。天皇は

「炊事の煙が国中を満たしておるではないか。百姓が豊かになったのだよ。」

と申されると、皇后は、

「宮垣は壊れてるのに、修理もしておりませんし、殿屋は破れ、その為衣服が露に濡れるような状態で、どうして裕福になったとおっしゃるのですか?」

とお尋ねになった。天皇は、

「よいかの。天が君主を立てるのは、これ百姓(おおみたから)のためである。しからばすなわち、天皇は百姓(おおみたから)を根本としなければならない。

それ故に、古の聖王は、百姓の一人でも飢えや寒さ苦しむ者あらば、顧みて自分を責めてこられた。

今、百姓が貧しいのは、朕が貧しいということであり、百姓が富めば、それは朕が富んだということなのだ。百姓が富んでいるのに、君が貧しいということは未だかつてないことなのだ。」

とおっしゃいました。

 原 文

四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰「朕登高臺以遠望之、烟氣不起於域中、以爲、百姓既貧而家無炊者。朕聞、古聖王之世、人々誦詠德之音、毎家有康哉之歌。今朕臨億兆、於茲三年、頌音不聆、炊烟轉踈、卽知、五穀不登、百姓窮乏也。封畿之內、尚有不給者、況乎畿外諸國耶。」

 ひとことメモ

徳治主義

儒教における政治思想のひとつ「徳治主義」です。徳を以って国を治めることを実践しているのです。

すばらしい!と言うしかないですね。今の行政を司る方々にも見習ってほしいものです。

戦後の昭和天皇、上皇明仁様、今上天皇、秋篠宮様のご発言を聞くにつけ、この徳治主義の精神は、天皇家には脈々と引き継がれているように感じます。皮肉にも、天皇家に行政権はなくなってしまいましたが、、、

今の行政を司る方々には、この精神を見習ってほしいものです。

 

聖帝と讃えられる

八月九日 大兄去來穗別皇子おほえのいざほわけのみこ(後の履中天皇)のために壬生部みぶべを定め、皇后のために葛城部かづらきべを定められました。

九月 諸国が悉く奏請し、

「課役が免除されて既に三年が過ぎました。そのために宮殿は朽ち壊れ、蔵はからになりました。

しかし今では、人民は豊かになり、落ちているものを拾うこともありません。里には孤独者もなくなり、家々には蓄えもできています。

もしも、こんな時に税調を貢がず宮を修理しなければ、おそらくは天罰を被るでしょう。」

と申し上げましたが、天皇は、お許しにはなられませんでした。

仁徳10年 壬午(みずのえのうま) 322

十月 初めて課役を科し、宮室を造られました。

百姓(おおみたから)は命令されなくとも、老人を助け幼い子を連れて、材料を運び土籠を背負って、昼夜を問わず力を尽くして競うように作ったので、、日数がかかることなく宮室が完成しました。

このようなことから、今でも聖帝(ひじりのみかど)と称えられるのです。

 原 文

秋八月己巳朔丁丑、爲大兄去來穗別皇子、定壬生部。亦爲皇后、定葛城部。九月、諸國悉請之曰「課役並免既經三年、因此以、宮殿朽壞府庫已空、今黔首富饒而不拾遺。是以、里無鰥寡、家有餘儲。若當此時、非貢税調以脩理宮室者、懼之其獲罪于天乎。」然猶忍之不聽矣。

十年冬十月、甫科課役、以構造宮室。於是、百姓之不領而扶老携幼、運材負簣、不問日夜、竭力競作。是以、未經幾時而宮室悉成。故、於今稱聖帝也。

 ひとことメモ

壬生部・葛城部

部民べみんは、何らかの役割を与えられた集団のことをいいます。

壬生部は乳部ともいい、皇子の養育費を負担する役割を担いました。葛城部は磐之媛皇后の世話をするための部民です。

仁徳天皇の免税

「竈から煙が出てない。これは人民が貧困しているからだ。」として、3年の免税を発令したのが、仁徳4年。

3年後の仁徳7年4月に、煙が立ち上る光景を確認。「人民は豊かになった」と言いました。なので皇后は、もういいんじゃないの?と言ったわけですが、結局、課役を科したのは、仁徳10年の10月です。

ですから、はじめ3年と言いながら、6年余りのの間、税を免除したということになります。

史実かどうかは、わかりませんが。

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