日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑦|堀江の開削と茨田堤

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難波の堀江

仁徳11年 癸未(みずのとのひつじ) 323

四月十七日 天皇は群臣に詔して、

「今、朕はこの国を見るに、野や湿地帯は広大だが、田圃は少ない。河の水は氾濫し、河口での流れは遅い。長雨が降れば、海水が逆流して里でも船に乗らないといけなくなり、道路は泥に埋まる。

そこで、群臣は共にこの状況をよく見て、あふれる水は海に通し、堀を深くして海まで通し、海水の逆流を防いで家や田を守れ。」

と詔されました。

十月 宮の北方の野を掘り、南側の水を引き込んで西の海に流しました。これを堀江(ほりえ)といいます。

 原 文

十一年夏四月戊寅朔甲午、詔群臣曰「今朕視是國者、郊澤曠遠而田圃少乏、且河水横逝、以流末不駃。聊逢霖雨、海潮逆上、而巷里乘船、道路亦泥。故、群臣共視之、決横源而通海、塞逆流以全田宅。」

 ひとことメモ

古代の大和川

野や湿地が多く田圃が少ないこの国とは、河内平野のことです。

昔の大和川は、奈良から大阪に入ったところで、南河内から流れ来る石川と合流して水量を増やし、平野川・百済川・長瀬川・楠根川・玉串川など、幾本にも枝分かれしながら、北へ北へと流れていました。

そして、氾濫を繰り返しながら氾濫原を広げていき、今の大阪平野となりました。

(今のように大阪平野をまっすぐ西へ流れるルートは江戸時代に人工的に作られたものです。)

 

河内湖

もっともっと上古の、河内湾(入り江)の頃はよかったのですが、淀川から運ばれた土砂や、海流に乗って打ち寄せられた砂などで河内湾がふさがれて、やがては湖になりました。河内湖と呼びます。

大雨が降ると河内湖に大量の雨水が流入します。しかし、大阪湾へ出て行く流れが砂洲によって塞がれて遅いもんですから、河内湖はあっという間に溢れてしまい、村々が水没するという被害に遭っていました。

そんな状態なので、広大な土地はあっても、そこに田圃をつくることが出来なかったのです。もったいないです。

そこで、難波高津宮の北に運河を通して、河内湖の水はけをよくしたというわけです。

 

 

茨田堤

また、北の河の洪水を防ごうとして、茨田堤まむたのつつみを築きました。この時、二か所だけは築いてもすぐに壊れて、塞ぐことが困難でした。

そんな時、天皇の夢に神が現れて教えて、

「武蔵の強頸こわくびと河内の茨田連衫子まむたのむらじころものことの二人を、河伯かわのかみに奉れば、必ず塞ぐことができる。」

とおっしゃいました。

そこで早速二人を探し出して、二人を河神の人身御供ひとみごくうとしました。強頸こわくびは泣き悲しんで水に沈んで死んだので、その場所の堤は完成しました。

ただ、衫子ころものこは丸い瓢箪を二個取って河に投げ入れて、

「河神よ、あなたが祟るから私が生贄とされました。そして、今、私はここに来ました。

私を本当に得たいを思われるのならば、この瓢箪を沈めて浮かばないようにしてください。そうすれば、貴方様が真の神であることを知って水に入りましょう。

しかし、もし、瓢箪が沈まなければ、偽りの神とわかるから、我が身を亡ぼすようなことはしません。」

と言いました。

その時、突然に飄風つむじかぜが起こり、瓢箪を沈めようとしましたが、瓢箪は波の上を転がって沈むことなく、激流に乗って遠くへ流れて行きました。この結果、衫子ころものこは死ななかったし、堤も完成しました。

これは、衫子の機転が身を守ったのです。このようなことがあったので時の人は、この二つの堤を名付けて、強頸断間こわくびのたえま衫子断間ころものこのたえまと呼びました。

ちなみに、この年に新羅人の朝貢があったので、この堤防造りに従事させました。

 原 文

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壞之難塞、時天皇夢、有神誨之曰「武藏人强頸・河內人茨田連衫子衫子、此云莒呂母能古二人、以祭於河伯、必獲塞。」則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。

唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知偽神。何徒亡吾身。」於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

 ひとことメモ

淀川を治める

堀江を切ったことで、平野川からの流れが大阪湾に排出されやすくなり、河内湖の水はけがよくなりました。次は北を流れる淀川の氾濫を抑えることが出来れば、大阪平野は安全で肥沃な黄金の大地に生まれ変わります。

というのも、大和川は奈良県の土壌の特質により土砂が多いですが、水量は淀川ほどは無いですから、淀川の氾濫を抑えれば、大和川が運んでくる土砂は寧ろ大歓迎だからです。

というわけで、淀川と、その支流の古川、生駒山地からの流れを取り込む寝屋川に堤防を築いたということです。

茨田の堤

茨田の堤の全容については、いまだ諸説あり明確にはわからないようですが、一般的には、

(茨田堤1ライン)
枚方市の伊加賀いかがあたりから淀川左岸沿いに下流へ。寝屋川市の大間たいまあたりで支流へ。寝屋川市の平池あたりまでの区間だったという説。

(茨田堤2ライン)
いやいやそこから、現在の古川沿いに南へ進み、門真市の北島あたりまでの区間も築かれたのよという説。

茨田堤2ライン説は、京阪電鉄の大和田駅近くに堤根神社つつみねじんじゃがあって、そこに堤防跡があり、それが茨田堤の跡ではないと言われてはいたのもも確証がない状態でした。

しかし、発掘調査の結果、その地下に5世紀に築かれたと思われる堤防跡が発見されましたので、茨田堤であった可能性が俄然高くなったという次第です。

(茨田堤3ライン)
さらに、太間から淀川本流をもっと下流に進み、今は無き支流沿いにも築かれたという説もあります。

それは、大阪市旭区千林強頸絶間こわくびのたえまの伝承地がありますので、少なくとも千林までは、堤が築かれていたはずだという訳です。

太間天満宮

大阪府寝屋川市太間町に、太間天満宮たいまてんまんぐうがあります。衫子断間ころものこのたえまの伝承地のすぐ近くです。

主祭神は菅原道真公ですが、地主神として衫子ころものこが祀られています。もともとは、衫子を祀る小社に道真公が合祀されたということだそうです。

太間たいまの地名も、断間たえまが由来と思われます。

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