日本書紀|第十六代 仁徳天皇⑨|玖賀媛、そして八田皇女
桑田の玖賀媛
仁徳16年 戊子(つちのえのね) 328
七月一日 天皇は、宮人(女官)の桑田玖賀媛を、近習の舎人らに見せて、
「朕、この女官を妃にと思うのだが、皇后が妬みがひどいので、歳月が過ぎてしまった。盛年を無駄にするのは惜しい。」
とおっしゃられ、歌を詠んで家臣に問われた。
みなそこふ おみのをとめを たれやしなはむ
水底ふ 臣の少女を 誰養はむ 私の臣下の乙女を、誰か養いたいと思う者はいないか? |
播磨国造の祖の速待が、一人進み出て歌で、
みかしほ はりまはやまち いはくだす かしこくとも あれやしなはむ
みかしほ 播磨速待 岩砕す 畏くとも 吾養はむ この播磨の速待が、畏れ多いことですが、お養いしましょう |
と申し出たので、その日のうちに、玖賀媛を速待に授けました。
翌日の夕方、速待は玖賀媛の家に出向きましたが、玖賀媛は打ち解けなかったので、強引に帷の中に入ろうとしたところ、、
「私は、独り身のままで終わります。どうしてあなたの妻などになりましょうや。」
と言いました。
そこで、天皇は、速待の志を遂げさせてあげようとして、玖賀媛に速待を副えて、桑田に帰しましたが、玖賀媛は途中で発病して亡くなりました。今もそこに玖賀媛の墓があります。
原 文
十六年秋七月戊寅朔、天皇、以宮人桑田玖賀媛、示近習舍人等曰「朕、欲愛是婦女、苦皇后之妬、不能合以經多年。何徒妨其盛年乎。」仍以歌問之曰、
瀰儺曾虛赴 於瀰能烏苔咩烏 多例揶始儺播務 於是、播磨國造祖速待、獨進之歌曰、 瀰箇始報 破利摩波揶摩智 以播區娜輸 伽之古倶等望 阿例揶始儺破務 卽日、以玖賀媛賜速待。明日之夕、速待詣于玖賀媛之家、而玖賀媛不和、乃强近帷內。時玖賀媛曰「妾之寡婦以終年、何能爲君之妻乎。」於是天皇、欲遂速待之志、以玖賀媛、副速待、送遣於桑田、則玖賀媛、發病死于道中、故於今有玖賀媛之墓也。 |
ひとことメモ
桑田玖賀媛
桑田玖賀媛は、丹波国桑田郡の人です。桑田郡は京都市北部、亀岡市、美山あたりまで広範囲ではありますが、当然ながらその中心は亀岡ですから、この姫も亀岡の出身なのでしょう。
丹波国は強大な勢力もっていました。9代開化天皇の妃「竹野媛」は丹波大県主の娘ですし、崇神天皇の御代に日子坐王と丹波道主命によって平定されて以降は、天日矛勢力と結合することで、さらに勢力を伸ばしました。
磐之媛皇后の反対さえなければ、妃になるに相応しい姫であったと思います。
何故、磐之媛は反対したのでしょうか。単なる嫉妬なのでしょうか。天皇の権威を高めるための正史に、妻に頭が上がらない、こんな情けない姿を、わざわざ記述するでしょうか。
私は、磐之媛が反対したのは、丹波国造とヤマト朝廷が近づくのを警戒したからだろうと考えます。
また新羅が朝貢を欠く
仁徳17年 己丑(つちのとのうし) 329
新羅が朝貢しませんでした。
九月 的臣の祖の砥田宿禰と、小泊瀬造の祖の賢遺臣を遣わして、貢物を欠かした理由を問いただしたところ、新羅人は恐れて貢物をした。
内訳は、調絹を一千四百六十疋及び種々の雑物、併せて八十艘でした。
原 文
十七年、新羅不朝貢。秋九月、遣的臣祖砥田宿禰・小泊瀬造祖祖賢遺臣而問闕貢之事。於是、新羅人懼之乃貢獻、調絹一千四百六十匹、及種々雜物、幷八十艘。 |
八田皇女を妃にしたい!
仁徳22年 甲午(きのえのうま) 334
正月 天皇は皇后に
「八田皇女を妃にしたい」
と話をしましたが、皇后は聞き入れませんでした。
そこで、天皇は歌を以って、皇后にお願いしました。
うまひとの たつることだて うさゆづる たゆまつがむに ならべてもがも
貴人の 立てつる言立 設弦 絶間継がむに 並べてもがも はっきりと言っておくが、予備の弦として、本弦が切れたときにだけ使うのだ だから置いておきたい |
皇后の返歌
ころもこそ ふたへもよき さよどこを ならべむきみは かしこきろかも
衣こそ 二重も良き さ夜床を 並べむ君は 畏きろかも 着物なら二重の着物でもよろしいでしょうが、夜の寝床を並べようとされるあなた様は、おそろしいお方ですね |
天皇がまた歌でお願いする
おしてる なにはのさきの ならびはま ならべむとこそ そのこはありけめ おしてる 難波の崎の 並び浜 並べむとこそ その子はありけめ 難波の崎の並び浜のように、並べて置くためにだけだと、その子は思ってるだろう |
皇后の返歌
なつむしの ひむしのころも ふたへきて かくみやだりは あによくもあらず 夏虫の ひむしの衣 二重着て かくみやだりは あに良くもあらず 夏の蚕が、繭を二重の着て、囲んで宿にするようなことは 良いことではありませんよ |
天皇がまた歌でお願いする
あさづまの ひかのをさかを かたなきに みちゆくものも たぐひてぞよき 朝妻の ひかの小坂を 片泣きに 道行く者も 偶ひてぞ良き 朝妻のひかの小坂を ひとり泣きながら歩いて行く者にも、道連れがあるほうがいい |
しかし皇后は、どうしても許せないと思ったので、もう黙って答えませんでした。
原 文
廿二年春正月、天皇語皇后曰「納八田皇女、將爲妃。」時皇后不聽、爰天皇歌、以乞於皇后曰、
于磨臂苔能 多菟屢虛等太氐 于磋由豆流 多由麼菟餓務珥 奈羅陪氐毛餓望 皇后答歌曰、 虛呂望虛曾 赴多弊茂豫耆 瑳用廼虛烏 那羅陪務耆瀰破 箇辭古耆呂介茂 天皇又歌曰、 於辭氐屢 那珥破能瑳耆能 那羅弭破莽 那羅陪務苔虛層 曾能古破阿利鶏梅 皇后答歌曰、 那菟務始能 譬務始能虛呂望 赴多弊耆氐 箇區瀰夜儾利破 阿珥豫區望阿羅儒 天皇又歌曰、 阿佐豆磨能 避介能烏瑳介烏 介多那耆珥 瀰致喩區茂能茂 多遇譬氐序豫枳 皇后、遂謂不聽、故默之亦不答言。 |
ひとことメモ
八田皇女
八田皇女は、応神天皇と宮主宅媛との間に生まれた姫様です。ですから、自殺した菟道稚郎子皇子・この後で非業の死を遂げる雌鳥皇女とは、同母兄弟となります。
磐之媛命の死後、次の皇后となる人です。
磐之媛命との対立
皇后の磐之媛命は、八田皇女を妃にすることを、かたくなに拒否してます。一応、嫉妬を理由にしていますが、この姫を娶ることに反対する理由は他にあると思ってます。
第一に、母が和珥氏の出身であること。葛城襲津彦の娘としては、というか、葛城襲津彦としては、葛城氏の勢力を保つために和珥氏の姫は受け入れがたいものでしょう。
第二に、菟道稚郎子皇子の妹であること。皇位を譲って自ら命を絶ったという美談に仕立ててはいますが、自殺に追い込んだ、あるいは暗殺したのではとさえ言われている、仁徳天皇と菟道稚郎子皇子の関係性からすると、仇と思っているかもしれない女を懐に入れる怖さがあります。
仁徳天皇が強行できない理由
一方で、仁徳天皇からすると、八田皇女を妃にすることは、敵対関係になっている菟道稚郎子皇子勢力(宇治天皇の勢力)との和解あるいは制圧を、内外に見せつける効果を生み、それが国の安定につながると考えていたことでしょう。
やればいいのですよ。しかし、天皇は、桑田玖賀媛の時と同じように引きさがります。
それは、磐之媛命のバックにいる葛城襲津彦に遠慮してのことでしょう。仁徳天皇の皇位継承は、葛城襲津彦の持つ軍事力が無くては成らなかたからだ思うからです。
このような両者の思惑がぶつかり合って、この歌の応酬となったと思います。
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