日本書紀|第十五代 応神天皇①|応神天皇のひととなり

誉田天皇(ほむたのすめらみこと)
第十五代  応神(おうじん)天皇

 

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即位前

誉田天皇ほむたのすめらみこと(応神天皇)は足仲津天皇たらしなかつひこのすめらみこと(仲哀天皇)の第四子です。母は気長足姫尊おきながたらしひめのみこと(神功皇后)と申し上げます。

天皇は、皇后が新羅を征伐した年、仲哀九年の冬十二月に、筑紫の蚊田かたでお生まれになられました。

幼い時より聡明で、なおかつ物事を深く遠くまで見通し、その行動の様子は、まるで聖人の趣きがありました。

皇太后摂政三年の時に皇太子に立たれました。御年、三歳のことです。

天皇ははじめ、お腹の中にいるときに、天神地祗てんしんちぎから三韓を賜りました。そして生まれつき腕の肉が盛り上がっていて、その形はほむた(とも)のようでした。

それは、母の皇太后が男装して、ほむたを付けられていたのと似ていました。そこで、御名を讃えて「誉田天皇ほむたのすめらみこと」と申し上げました。いにしえの人はとものことを褒武多ほむたと呼んでいました。

一説に、、、

「はじめ天皇が太子になられて、越国に行かれて 角鹿つぬが の 笥飯大神けひのおおかみ を参拝さました。その時に大神と太子が名前を交換したので、大神を 去来紗別神いざさわけのかみ と呼び、太子を 誉田別尊ほむたわけのみこと と名付けた。」

と伝わります。

となれば、大神の本名が誉田別神ほむたわけのかみで、太子の元の名が去来紗別尊いざさわけのみことだったということになりますが、しかし、その記録はなく、詳しい事はわかりません。

摂政69年

四月に皇太后(神功皇后)が崩御されました。享年百歳でした。

 原 文

譽田天皇、足仲彥天皇第四子也。母曰氣長足姬尊。天皇、以皇后討新羅之年、歲次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田。幼而聰達、玄監深遠、動容進止、聖表有異焉。皇太后攝政之三年、立爲皇太子。時年三。

初天皇、在孕而天神地祇授三韓。既産之、宍生腕上、其形如鞆。是肖皇太后爲雄裝之負鞆肖、此云阿叡、故稱其名謂譽田天皇。上古時俗、號鞆謂褒武多焉。

一云「初天皇爲太子、行于越國、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。攝政六十九年夏四月、皇太后崩。時年百歲。

 ひとことメモ

筑紫の蚊田

神功皇后記では、宇美うみで生まれたとありました。蚊田かだは宇美の古名とのこと。

その候補地はいくつかあります。

  • 宇美八幡宮(福岡県粕屋郡宇美町)橿日宮かしひのみやから宇美川沿いを内陸部へ入ったところ。一般的には、ここが応神天皇誕生の地としてよく知られています。
  • 宇美八幡宮(福岡県糸島市長野)。かつて蚊田村があり鎮懐石神社ちんかいせきも近く、地理的には最有力候補。
  • 蚊田宮(福岡県久留米市北野町)。蚊田かだという地名が残ります。
  • 若宮八幡宮(福岡県小郡市八坂)。かつて蚊田かだ(賀汰)郷と呼ばれていました

名前交換の真相

異説として紹介されている「気比大神と応神天皇の名前交換」は、古事記では本採用されたお話です。

しかし何度読んでも意味が分かりませんでした。

日本書記編纂者が挿入したのか、後世に付け加えたものかはわかりませんが、

となれば、大神の本名が誉田別神ほむたわけのかみで、太子の元の名が去来紗別尊いざさわけのみことだったということになりますが、しかし、その記録はなく、詳しい事はわかりません。

という一文は、私の疑問は至極当然なものとして正当化してくれました。古代人と気持ちが通じ合ったと感じる瞬間でした!

さて、この名前交換の意味なのですが、、、有力な説は、、、

” 名前の交換は間違いで、の交換だった ” とする説です。

古事記には、

太子が角鹿の仮宮に滞在中、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという。

とあり、これを要約すると、

入鹿魚を献上された応神天皇が、その見返りとして、一介の地主神に「御食津大神(みけつのおおかみ)」という立派な神名を与えた。

となり、さらに単純明快にすると、

魚(な)と名(な)を交換した。 が転じて、 名前を交換したとなった。

と考えられる。という説です。

なるほど~と思いませんか?

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