日本書紀|第十五代 応神天皇⑩|木滿致の暴政・高麗の失礼

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木満致(もくまんち)の暴政

応神25年 甲寅(きのえのとら) 294

百済王の直支王ときおう が亡くなり、子の久爾辛くにしん が王位につきました。王がまだ幼かったので、木滿致もくまんち が国政を執りましたが、木滿致もくまんちは王の母と愛人関係となり、無礼な行いが散見されました。

天皇は、このことをお聞きになり、木滿致もくまんちを呼び出された。

百済記には、

木滿致もくまんちは、木羅斤資もくらこんし が新羅を討った時に、新羅の女性を娶って、生まれた子といいう。父の功績により、任那(みまな)を専有していた。百済国に来て、倭国に行って帰ってきた。天朝(大和朝廷)からのり(統治方法)を承り、百済の政務を行った。この為、その権力はとんでもなく大きかった。しかし、朝廷がその暴政を聞いて呼び寄せた。」

と書かれています。

 原 文

廿五年、百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、與王母相婬、多行無禮。天皇聞而召之。百濟記云「木滿致者、是木羅斤資討新羅時、娶其國婦而所生也。以其父功、專於任那、來入我國。往還貴國、承制天朝、執我國政、權重當世。然天朝聞其暴召之。」

 ひとことメモ

特にございませんです。

 

高麗からの書状に、太子が怒る

応神28年 丁巳(ひのとのみ) 297

九月 高麗こま(こま)の王が使者を派遣してきて朝貢してきました。その書状曰く、

「高麗王が日本国に教えるなり。」

太子の菟道稚郎子うぢのわきいらつこ がこれを読んで怒り、高麗の使者を叱責し、その書状を破り捨てました。

 原 文

廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢、因以上表。其表曰「高麗王、教日本國也。」時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表。

 ひとことメモ

当時、百済と敵対していた高麗が、百済の後方支援をしていたヤマト朝廷に対して「朝貢」する?

とは言え、完全に敵対関係にあったわけでもなかったようですから、朝貢ではなく、単なる使者だったのでは?と思います。

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