日本書紀|第十五代 応神天皇⑪|引退した高速船「枯野」から塩と琴を作る

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高速船「枯野」の引退

応神31年 庚申(かのえのさる) 300

八月 群卿まへつきみたち に詔して、

「官船の枯野からの は、伊豆国からの献上の船である。朽ちてしまい使用に耐えられなくなった。しかし、長い間官用船であり、その功績を忘れてはならぬ。その船の名を絶やさず、後世に伝えられないだろうか。」

とおっしゃいました。

群卿はその詔を受けて 役人に命じて、その船の材木を取って薪とし塩を焼いたところ、海水から五百籠の塩を得ることができました。それを、周囲の諸国に分け与えて、船を造らせました。

そうすると、諸国から一斉に五百艘の船が献上され、ことごとく武庫水門むこのみなと に集まりました。

 原 文

卅一年秋八月、詔群卿曰「官船名枯野者、伊豆國所貢之船也、是朽之不堪用。然久爲官用、功不可忘、何其船名勿絶而得傳後葉焉。」群卿便被詔、以令有司取其船材爲薪而燒鹽、於是得五百籠鹽、則施之周賜諸國、因令造船。是以、諸國一時貢上五百船、悉集於武庫水門。

 ひとことメモ

枯野船の説話は、古事記では仁徳天皇記で登場します。古事記では河内国菟寸河(高石市富木町)の高い木で作られたことになってます。

 

猪名部(いなべ)の始祖

この時、たまたま、武庫水門には新羅の貢物の使者が停泊していました。その新羅の船を停泊していた所から出火して、それが集まった船に燃え移り、多くの官船が焼けてしまいました。

ゆえに、新羅人を責めたところ、それを聞いた新羅王は恐れ驚き、有能な匠者たくみ を献上しました。これが猪名部いなべ の始祖です。

 原 文

當是時、新羅調使共宿武庫、爰於新羅停、忽失火、卽引之及于聚船而多船見焚。由是責新羅人、新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也。

 ひとことメモ

猪名部

日本書記では、猪名部は新羅から献上された匠集団(木工技術者)とされていますが、新選姓氏録では、猪名部氏は饒速日命6世孫の伊香我色男命の後裔としています。

いずれにしても、その木工技術は優れていたようで、法隆寺、東大寺、石山寺、興福寺などの建立に携わった記録が残されています。飛鳥寺への関与を示す出土品もあるらしいですよ。

 

枯野の琴

枯野船を塩を作る薪として焼いきましたが、燃え残りがありました。

燃え尽きないのを不思議に思って、燃え残りを天皇に奉りました。天皇も不思議に思われて、燃え残りの木で琴を作らせました。

すると、その音色は、さやさやと遠くまで聞こえました。そこで、天皇が詠まれた歌。

からのを しほにやき しがあまり ことにつくり かきひくや ゆらのとの となかのいくりに ふれたつ なづのきの さやさや

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 振れ立つ なづの木の さやさや

枯野船を塩を作るために焼き、その燃え残りで琴を作って爪弾くと、由良の港の 海中の岩に振れて生えている、なづの木(海藻)のように、さやさやといい音がするよ

 原 文

初枯野船爲鹽薪燒之日、有餘燼、則奇其不燒而獻之。天皇異以令作琴、其音、鏗鏘而遠聆、是時天皇歌之曰、

訶羅怒烏 之褒珥椰枳 之餓阿摩離 虛等珥菟句離 訶枳譬句椰 由羅能斗能 斗那訶能異句離珥 敷例多菟 那豆能紀能 佐椰佐椰

 ひとことメモ

特にございません。

 

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